変化。
今まで生きてきて、様々なステージで色んなオトナの口から、
「成長」という言葉が当たり前のように出てきていたなと振り返って思うのだけども、
「成長」ってなんなのだろうか。
昨日プログラミングの勉強をしていて非常に強い挫折感を感じてしまい萎えていた時にそのような疑問を抱いた。
挫折感というのが、「成長」という概念に繋がっていると盲目的に感じているのではないかと思ったからだ。
弱った心を机に置いて、親しい友人に聞いてみた。
「”成長”ってなんだと思う?この言葉に関してどう捉えている?」
急に漠然とした抽象的な質問を受けた友人は困惑しただろう。
でも丁寧にこう答えてくれた。
「人間って日々変化するじゃん?例えば今食べたいものとかは、今日と明日では違ってくるじゃん。
そういう変化の積み重ねの途中で振り返った時に感じるものなんじゃないかな。」
うむ。確かにそうっぽい。
でもここで1つ疑問。
「退化」も変化の積み重ねであるとおもんだけど、退化と成長はどう違うの?
直感的に考えられるのが、ポジティブなのか否かだろう。
だから「不老不死」という概念を夢見てしまうのか。
「成長」っていうのは、変化の積み重ねを振り返ってポジティブな気持ちになった時に感じるものなのだろうか。
だとしたら、巷で言われる「成長する人材になろう!」とか、「君は成長しないな」みたいなことってよくわからなくなる。
だって、振り返らないとわからない感情を”今”提示されてもそんなの知り得ることは出来ないからだ。
個人的には、巷で乱用される「成長」というのは、乱用者にとっての評価基準における幅でしかなく、
それらを強要してくる輩がたくさんいるから、世知辛いと感じる瞬間が多いのだろうと思っている。
「成長」というのは変化の積み重ねと考えておいて悪くないと思う。
じゃあ、「変化」ってなんだ。
変化ってコントロールできるのか?
コントロール出来たら、悲しみとかという生存戦略的に非合理的な感情などとっくの昔になくなっていたのではないだろうか。
隣人が明日急にナイフをもって襲ってくるという「変化」を、そうしないようにコントロールすることは完全には出来ないだろう。
コントロールできない「変化」の積み重ねが「成長」。
となると、「成長」という言葉になんか胡散臭さを感じる。
この胡散臭さは、先に述べた乱用者たちのおかげなのかも。
「成長」は振り返った時の感情だ。
「変化」はコントロールできない。
日常がいかに非合理で、偶有性に富んでいるのか、
成長という言葉を考えていったら、そこに行きついた。
これが、「セイチョウ」か。。。
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