「ならぶこと、えらぶこと」(短歌研究2023年8月号)
「短歌研究」5・6月号の特集は、すっかり恒例となった三〇〇歌人新作作品集。今年のテーマは「一周回って」であった。特集が現在の形になって四年目であるが、2021年の「ディスタンス」、2022年の「リ・スタート」に比べると、寄せられた作品の方向性は最も幅があるように思われる。2021年は「ディスタンス」というまさにど真ん中なテーマ設定もあり、広い意味で「コロナ詠」と呼ばれるような作品が多かった。2022年は、原稿依頼のタイミング的にロシアのウクライナ侵攻についての歌が多く見られた。
世間に大きな出来事があればそれを取り上げる作品が増えるのは、総合誌に限らず結社誌や新聞歌壇でも同様のことだ。作品の強度やアプローチの傾向は対象毎に異なるとしても、短歌が並ぶ場所ではある意味平常運転とも言える。
それぞれの作品について、個々の評価はは当然作者に帰するものであり、この原稿では機会詠の是非について展開することを目的としない。どちらかというと、三百人という大量の歌人が並ぶことで何が見えるのか、とい
うキュレーションの問題について今一度考えたい。
昨年の同特集について。「短歌研究」二〇二二年七月号、鯨井可菜子による短歌時評では、同年五月号の特集について、先行する島田修三のエッセイ(「ネアンデルタール雑感―現代短歌とメディア」/うた新聞2022年4月号)、坂井修一との対談における斉藤斎藤の発言(対論「短歌は『持続可能』か。」/短歌研究2022年4月号)を踏まえ、以下のように述べている。
三〇〇人の歌を、共時代性によって包括することで<ゼリー寄せ>と表現するのは例えとしてよく分かる。昨年時点では納得して読んでいたのだが、今年の特集について考えた時に、「ゼリー寄せ」で果たしていいのだろう
か、という方向で立ち止まってしまった。
昨年や一昨年は「コロナ」や「ウクライナ」といった世代を超えた大きな出来事があったから、それらが共通の歌材として度々登場し、読者としてそれを取っ掛かり=フックにできたからこそ、長大な特集全体を、何らかの総体のように、それこそ「ゼリー寄せ」として読み通せたのではないだろうか。
たとえその年に大きな出来事がなかったとしても、特集のフレームとして、読者の側にもう少し何らかのフックがあっていいと思う。
現行の五十音順では、ある程度歌人の名前を「知っている」読者であれば名前を引くことができるけれども、そうでない読者ば頭から通読する(あるいはランダムにページをめくる)ほか読み方がないからだ。
寄稿者であった立場を一旦忘れて一読者として言うならば、現在の特集の状況は、良くも悪くも寄席の初席、顔見世興行のようなものにも思われる。
大勢の芸人が入れ替わり立ち代わり出てきてはすぐに袖に引っ込んで忙しないけれども、芸人にとっても観客にとっても、まさに「顔見せ」として場を共有していれば良いのだ。お目当ての噺家の出番がほんの一瞬だとし
ても、別に通常営業の時に行けばたっぷり聴くことができるのだから、さほどに気負うこともない。
とはいいつつ、寄席は五十音順ではなくて香盤順、だいたいはキャリアの長い人が後の方に出てくるので、五十音順で三百人よりも分かりやすいですね。そしてあとの人のほうが持ち時間も長い。
「三百人」について、フラットさを活かしつつ、読者の側にフックをつくるにはどうすればいいだろうか。現行の形式で、作品の他に掲載されているのは作者名と生年・所属の三つなので、この中ではやはり生年が使える
だろう。
たとえば角川の『短歌年鑑』のように、おおまかな世代毎に掲載するとか。あるいは生年順の索引を別途つける形でもいいかもしれない。歌人の生年一覧、資料的にはかなり価値があるが、掲載される方は嫌がる人もいるだろうか。
鯨井の時評に先行する、斉藤斎藤の発言を引く。斉藤は対談の中で、総合誌の機能としての権威付けがシステムとして失効していることを指摘し、以下のように述べている。
年齢順の掲載は、読者の側のフックとしてだけではなく、一方で誌面としてのスタンスも表明することになるだろう。一例として年齢による並び順について検討してみたけれど、必ずしもそれがベストだとは思わない。ただ、
せっかく三〇〇人もいるのだからもう少し、物量以外の読みでがあってもいいのではないか。
幅広い世代の歌人を三〇〇人の規模で集めることができるのは、確かに短歌総合誌だからこそできる企画であろう。せっかく集められたのならば、その場限りで解散はちょっと勿体ない気がしてしまう。
(短歌研究2023年8月号掲載分をレイアウト修正の上掲載。)
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