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三月から四月にかけての活動と私語

かくにも疫病が。名実ともに無理になってきました。
34回まで毎月続いていた北赤羽歌会も中止にしてしまったし、折角お声がけいただいた仕事も延期になった。
短歌の現場も演劇の現場もなくなって、それでもロックアウトされない限り職場に行かねばならぬ。案の定トータルの仕事量は増えました。

〇『光と私語』を『ブックデザイン365』にご紹介いただきました。

書籍のタイトルとして、書名で先ず殴りにいくぜ、みたいな流れ(なろう系とかも含め)好きですよ。やらんけど。


web文芸誌「crossover」で山木礼子さんに取り上げていただきました。

かなりがっつり言及していただいています。山木さんの冒頭の

なぜ、歌の側ばかりが虚構を問われるのだろう。主体の背後で文句ひとつ言わず、行儀よく息を詰めているような、確固としたわたしなどいない。定型の力を借りて立ち顕れる正しい現実なんて初めからない。

というのはまさにその通りだと思っていて。私性をいろんな人が恣意的に混同しているの、もっと警戒したほうがよい、あなたもわたしも。わたしは基本的にすべて作中で回収すべきという信仰です。


〇「塔」三月号 青蝉通信で吉川宏志さんに言及していただきました。

いわこしさんが京都で開かれてた読書会を端緒に書かれています。

エゴイズムが薄くなり、もっと大きな幸福を願う、現代の若者の慎ましいメンタリティーが、こうした歌にさりげなく刻まれている(逆に、良くも悪くも、個人の欲望をぎらぎらと追求したのが、バブル世代の若者だったといえよう)。

どの辺から「バブル以降」って言えそうか、個人的には興味があります。ある種の感情の淡白さを、永井さんや笹井さん、あるいはもっと近くで山木さんやその前に東直子さんが上げられた『光と私語』『風にあたる』『はるかカーテンコールまで』の3冊から共通して見出すことは結構できると思うのだけれど、それは世代的なものというより、方法論の近しさとか、技術的な問題なのではないだろうか。
世代で言おうとすると、とはいえあの人とかあの人とか結構ぎらぎらしていないですかそんなことないですか?みたいにどうしても思ってしまう。

〇最近の自作を並べたやつ。

カロリーの高い歌を軒並み抜いたことが、『光と私語』では結果的にうまく作用した、かもしれない。3章あたりから最近にかけては、もう少し詠み方を調整しています。ざっくり言うとLo-fi hip hopがやりたい。

刊行から1年。
今後もいろいろやりますので、生き延びてまたお会いしましょう。

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