インフラと物量戦/長谷川麟『延長戦』
この二十年で口語短歌は急速に整備されてきた。競技人口と作品数の増加を遠因とする、詩歌の中に使用される語彙や構文(よく誤解されているけれど、これは別に発話体に限らない)の拡張と共有があり、その更新スピードは年々上がっている。
近年の口語による歌集の多くは拡張された詩語の領域を踏まえており、長谷川麟の第一歌集『延長戦』もまた、その延長線に位置している一冊と言えるだろうか。
「ワンバン」も「インスタ」も特に、これらの歌で短歌に初めて登場した単語ではない。ここでは、語が新しくて良い/悪い/凄い/凄くない、という価値判断ではなくて、作者にとってこれらが既に詩歌に用いうる語彙として、極めて自然に用いられていることに注目したい。
「自分の可能性が恐ろしい」はこの場合、ミームに近い構文の導入と言えるだろうか。カービィはゲームのキャラクター。山田勝己は、知らない人は検索してください。
「ありやんね」 「行きしに」「ようやっと」などは方言的なニュアンスがあり、これは地域性を前提にした、作者ならではの文体の導入と言えるかもしれない。
あるいはこれらのルビの歌。どちらも間接話法として用いられるところに注目したい。作者にとって、「カービィ」や「反り立つ壁」は使えても、「聴牌」や「情報弱者」は、主体のものとしてはまだ獲得されていない。
作者の身の回りの幅広い語彙がフラットに用いられている、ことを『延長戦』の特徴として言うとき、語彙の幅自体はこの歌集の良さではない。むしろ身の回りの幅広い語彙が歌集に散りばめられることにより、一冊の歌集としての感傷の起伏が薄まり、全体のトーンとして明るさを担保してくれる、効果のことを重要視したい。
感傷は大抵の場合、己の過去に対して生じるものであり、歌に詠まれるエピソードもまた、作品の制作時点から見れば過去に起こった出来事となる。この歌集における語彙の幅は、過去として思い出す出来事の多さに由来していて、その豊かさ自体がある種ポジティブなものとして読者に機能するのではないか。おそらく、家族詠を歌集の軸に据えてあれば、印象は大きく異なったはずだ。
一首単体で見ると不全感や後悔のような、ネガティブなものが現れている歌も多い割に、一冊分の感覚としては不思議と明るい。その向日性を語彙の幅とそれらを扱う手つき、ひいては一冊分の質量そのものが担保しているところに、この歌集の魅力がある。それはこの二十年の口語短歌の領域における、成果の一つとしても言えるだろう。
(「塔」2023年11月号掲載分から改稿。)
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