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「世界をたたむ手つきの美しさ」/笹川諒『水の聖歌隊』

笹川諒『水の聖歌隊』評
吉田恭大

 第一歌集。作中に触れられる感情はどれも繊細で、作者の細心の手つきによって短歌の形に整えられている。

遠目には宇宙のようで紫陽花は死後の僕たちにもわかる花
水槽の中を歩いているような日は匿名になり月になる
一冊の詩集のような映画があって話すとき僕はマッチ箱が見えている

比喩、特に直喩の歌の多さに注目した。
例えば一首目に提示される「紫陽花が遠目には宇宙のように見える」「紫陽花が死後の僕たちにもわかる花である」という二つの情報から導かれる、「宇宙」/「僕たちの死後」の重ね合わせ。あるいは、もっと想像に任せた読み方が許されるならば、「水槽」と「匿名/月」の間に海月のような生物を、「詩集のような映画」と「マッチ箱」の間に古い映画館やキネトスコープを見出し、補完することもできるかもしれない。

複数のイメージを積み重ねてゆくタイプの歌にとって、直喩は蝶番のように一首を折りたたむはたらきをする。笹川の作品は、直喩によって丁度半分、一首がきれいに二つに畳まれるような心地よさがある。

世界が終わる夢から覚めて見にゆこう鹿の骨から彫った桜を

世界が終わる夢、の滅びのイメージの甘美さと、一方で現実にある、恐ろしく手の込んだ工芸品。美しいものと美しいものを掛け合わせて、より美しいものを導き出そうとする手つき。直喩の歌に限らず、一首に際して扱われる情報量が適切で、さらに歌材同士が掛け合わされるとき、一首の魅力が最大化される。

首筋にマッサージ器を当てるときだけ思い浮かぶ夏の空港
自分でも自分のことがわからない たましいが画材屋にでかけてる

 イメージの使い方としては、心理や身体についての作品も面白かった。人間は仕組みは分からないけれども何故か動いている装置で、詩の言葉、ここでの夏の空港や画材屋、は断片的にのみその機能を説明することができる。

雨後の街は金魚のにおいばかりする こころの外へ僕を出さねば
 「眠りの市場にて」(「短歌研究」二〇二一年七月号)

歌集未収録の近作から。
個人的には、作者の見出す美しさ、歌に詠み得る感情の、さらに多くのヴァリエーションを見てみたいと思った。

(「ねむらない樹」vol.7掲載分より改稿)


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