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僕の思想や髪型がもしもこの先に変わっても

だいぶ前になりますが、2021年に放送されたETV特集『夫婦別姓 “結婚”できないふたりの取材日記』を観ました。
ディレクターの高橋敬明さんが、婚約者の神野明里さんと自分の家族を2年半にわたって撮影したドキュメンタリーです。

いろいろ見所はありましたが、最も印象に残ったのは敬明さんのお母さんの姿です。

2018年のこと。
あらすじにある通り、敬明さんが名字を変えて結婚することに両親は激怒します。
お母さんから届いたLINEには
「(お父さんは)名字を変えたら、結婚式は、出ないし、親子の縁も終わりと言いました。子供が生まれても行くな」
「欲しい物も食べたい物もないので、気にしなくていいし、今は、二人に会いたくないので、来ないで。」
と強い言葉が並んでいました。

2019年。
敬明さんは親子の縁を切ってまで名字を変えることに踏み切れず、二人は事実婚という形を取ります。
しかし、同じ名字になれない敬明さんと明里さんは法律上夫婦とは認められません。

その年の夏。
二人と敬明さんの両親のぎくしゃくした関係が一年続いていたある日、明里さんのスマホに1件のLINEが届きます。
敬明さんのお母さんからの「暑中お見舞申し上げます」という動画でした。
(パワポで作ったような虹のかかった独特なアニメーションでかわいらしかったです)
独特な、お母さんからの歩み寄りの気持ちの表現でした。

それからしばらくして、敬明さんはお母さんと会って話をします。

──苗字が変わろうが変わるまいが、親子でしょ?
(母)もちろんそうよ。もちろんそうよそれは。

──だからどうしてそこまで苗字にこだわるんだって。
(母)そうなるとさ、本当は平行線だからさ。もうじゃあ好きにしてよってなるわけよ。

当初「息子の名字が変わると、息子を失ったように感じる」と言っていたお母さんとの話し合いは、やはりお互いの価値観が交わることなく、やや感情的になります。

──別に親の反対を押し切って妻の名字で結婚できたけど。
(母)そこはなんなの? なんでしなかったの?

──それは親への気持ちでしょ。
(母)親へのどういう気持ち?

──悲しい思いをさせたくないっていうさ。
(母)じゃあいいんじゃん。それで。

──だからそう。なかなかいま・・・。

しばらく会話をした後、お母さんは吹っ切れたようにこう言います。

(母)いいじゃない。
もうね、70になるとねどうでもよくなるんだよね。
それはいろいろなことを言ってもね、一番望むのは息子たちの幸せだからさ。
息子たちが良ければいいんじゃない。
ええ・・・・・・という気持ちが和らいできたのは、やっぱ時間だよね。

長い長い道のりじゃ。でもほんと、敬明のおかげでいろんな経験してるよね。 一番最初はさ、私立中学の受験? お兄ちゃんしなかったからさ、それも違う世界が見れてよかったと思ったけどさ。今回もなんか違う世界が見れて良かったなって。他人事じゃなくなっちゃったよ。おかげさまでありがとうございます!

まあ人生一回だからさ・・・・・・。

息子が抱く、明里さんと夫婦になりたいという気持ちと、両親を傷つけたくないという気持ち。
それらを理解して、自分が生きてきた時代の価値観との違いに戸惑いながらも、息子たちの選択を肯定しようとする。
そんなカラッとしたお母さんの様子に大きな愛を感じた。
(ちなみにお母さんは結構早口でパワフルな感じの方です)

また時が経って2020年。
夫婦の姓について調べたり活動に参加したりするなかで、敬明さんと明里さんは、明里さんの姓で結婚するのはなく、夫婦別姓での結婚を望むようになります。
そのことについて、敬明さんは両親と三人で話し合います。

──(名字を変えて結婚したいと報告してから)2年経ったいま、どう思ってる?
(父)2年経っても夫婦は同姓のほうがいいと思ってる
〜中略〜
──今は夫婦別姓で結婚したいと思ってる。
(父)いいや。(夫婦は)同姓でなくちゃいけない。

お父さんが夫婦別姓に反対する一方で、隣に座っているお母さんは敬明さんにこう言います。

(母)息子がとてもよく考えた結果ならば譲歩しなくもないね。お母さんは。
お母さん大丈夫。夫婦別姓でも大丈夫。あなたが変わらなければ。

きっぱりと敬明さんの考えを支持し、反対を続けるお父さんについては
「良いんじゃない。意見だから」
と言ってくれました。

ドキュメンタリーのラストは2021年の元日。
この日、敬明さんと明里さんは初めて一緒に敬明さんの実家に行き、四人集まって正月を祝いながら、話し合う約束をしていました。
ところが、前日東京ではコロナの新規感染者数が1300人を超えたため、約束はなしになります。
それで、四人で食べるはずだったおせちを、お母さんが自転車で届けに来てくれました。
サンバイザーとマスクをつけて THEお母さん って感じの格好で現れ、道端で敬明さんと少し話をします。

──お父さんどんな感じだった?
(母)どんな感じって?

──もともと今日会ってさ、四人でおせち料理食べようて言ってたじゃん。それがなくなったじゃん。なんか言ってた?
(母)別に。なんも言ってないよ。いいんじゃない?

──まださ、お母さんは結構さ夫婦別姓に関してもさ、理解を示してくれてるじゃん。で、親父は依然としてさ夫婦は同姓じゃないとだめって。変わってないじゃん。だからいまの二人に言いたいことあるのかなって。
(母)まあ会ったときでいいんじゃない?

──まあね。そうだね。
(母)そうだね。以上。

(母)撮影料高いからね。家族だからって甘くないよ。
──わざわざありがとうね。健康だけは気をつけてね。
(母)そうよ。

──お父さんによろしくね。
(母)はいはい。またね。

コロナ禍で極力会話を控えようとしてだろうが、嵐のように喋ってすぐに自転車で帰っていきました。
ママチャリを漕ぐその背中が、なんだかとてもかっこよかったです。

このドキュメンタリーを通したお母さんの姿から、「自分の考えを変えられる人のかっこよさ」を感じました。

自分の考えを変えることは、そう簡単なことではありません。
これまで自分が生きてきた時代や環境によって形成された価値観を疑うことであり、時にはそれを否定することであります。
当然大きな痛みを伴う場合もあるでしょう。

ただ、人々が自分の考えを変える努力をしなければ、世界は対立と分断が進むだけです。
現に今も、価値観や思想が違っても手を取り合うことができたはずの人たちが、交わることなく互いを傷つけ合っています。

多様性の尊重が声高に叫ばれて久しいですが、多様な社会はこの世界に生きる一人ひとりが「自分の考えを変える力」を育まなければ実現しないのではないでしょうか。

大きな変化じゃなくてもいい。
目の前にいる人の異なる価値観を理解しようとし、それを受け入れられるように、自分の内面を覆う膜を少し変形させる。
そういうことができるように、わたしたちは、日頃から自分の内側も外側もちゃんと見つめて、柔らかくなっているべきだと思います。

敬明さんのお母さんには、自分の価値観に固執しない柔軟さと、荒波をかきわけて向こう岸にいる大事な人を抱きしめるような力強さ、たくましさ、明るさがありました。

不公平で理不尽な社会のなかであっても(実際このドキュメンタリー内で亀井静香氏からひどい言葉を浴びせられたように)、お母さんが肯定してくれるということが、どれだけ敬明さんと明里さんの心の支えになっていることでしょう。

「自分の考えを変えられる」ことの価値を、わたしたちはもっと評価していかないといけない思います。
だから、その偉大さをきちんと発信して、変わることをリスペクトする風潮を作っていくべきなのです。
これからの時代のヒーローとは、それができる人だと思う。敬明さんのように──。

敬明さんのお母さんの姿を見れて、本当に良かった。

* * *

カネコアヤノの『もしも』という曲にこんな歌詞があります。

僕の思想や髪型がもしもこの先に変わっても今が 今が 今が

思想と髪型を並列に歌う詩に、毎回新鮮さを感じます。
思想が変わることって、髪型が変わるくらい自然なこと。
あなたの、わたしの、思想は不変ではない。

そんなことを当然のこととして柔らかく包み込み、それでいてベタベタしていない態度。

こういう態度が根底にあってこそ、
わたしたちはお互いを大切にすることができる。
わたしたちが作り出す未来に希望が持てる。はず。

* * *

変わることの面白さを感じられる本は、前もこのnoteで触れましたが、哲学者・永井玲さんの『水中の哲学者たち』です。

 わたしたちは、お互いの話をわからないからこそ聞くことができる。わたしたちがお互いに似ていて、境遇を共有していて、双子のようであったら、わたしたちは話すことができないだろう。わからないからこそ、耳を傾けて、よく聞いて、しつこく考えることができる。無責任な共感などいらない。彼女のわからなさこそが、わたしたちにものごとを語らせる。
 それは哲学対話の現場でもよく起こる。誰かが何かを言うたびに、皆が「めっちゃわかる!」と言いあう女子校に行ったことがあった。わたしはこうだと思う。めっちゃわかる! わたしはこうかも。そうそうわかる! 何を言っても、彼女たちは互いに共感して、深くうなずいている。
 だが、よくよくしつこく理由を聞いてみると、実は全然違う前提に立っていたことがわかる。あれ? と誰かが不思議な顔をして、どういうこと? と問い始める。意見が全然異なると思われていた2人が、同じ理由を共有していることも。言葉の使い方、とらえ方がそもそも全く違うことも。
 彼女たちの王国が少しずつ壊れていく。だが、彼女たちの表情は、むしろほっとして、穏やかになる。何人かにとって、いや、おそらく全員にとって、その王国は虚構だったのだ。むしろ彼女たちを閉じ込める檻だったのかも痴れない。そんな予感を持ちながら、とにかく一緒に辛抱強く考える。「この話、簡単だと思ってたけど、そんなことなかったな」。誰かがぽつりと呟く。この呟きで、救われたひとがきっといる。

 「死んだらひとはどうなるのか」について小学生と哲学対話した話。

〜中略〜

 いろいろ心配したが、対話はなごやかに進んでいく。彼らの関心は「魂があるか」ということに集中する。テレビで見た話。本で読んだ話。お母さんが教えてくれた話。だがその中でメガネの少年がおずおずと発言した。
「魂なんてないよ。死んだら何もない。無になる」
 案の定、反論の嵐がウギャー。ヘドバンギャー! ならぬハンロンギャー! である。どうやらメガネの彼以外は全員、魂がある派のようだ。
 魂ってどんなものか教えて、と頼むと「いのち」とか「こころ」とか「死んだらポーンと出るもの」などと、どんどん出てくる。ある男子は、眉間に皺を寄せ、くねくねと体をゆがませ両手で何かを形作りながら言う。
「たましいとはもやもやした、きもちみたいなものだ」
 それは見えないの? と聞くと、うーん、と言いながら言葉を探すように体をくねらせる。考えているのだ。わたしも、一緒に眉間に皺を寄せて考える。
 見えないものを表現するのはむずかしい。むずかしいからこそ、彼らはなんとか伝えようとする。
 なぜ彼らが魂の話をしているのかというと、生まれ変わりを説明するためだ。
 ひとは死ぬと、ものすごい勢いで魂が飛び出て、誰かの中に入るという。生徒たちは生まれ変わりについて考えている。それを見たメガネ少年はわたしに目線を合わせると、むくれたようにして「あーあ、みんなキリストきょうとになっちゃったな」とつぶやいた。彼らの思想が実際にキリスト教的であるかどうかは別にして、その言い方に笑ってしまう。メガネ少年の批判は、皆の意見が神話的すぎる、というものだ。
「この中で、生まれ変わる前のこと話せるひといる?」と聞いてみたら、ゲラゲラ笑われた。いないよ、魂が移ったらもう前の記憶はなくなっちゃうんだよ。するとメガネ少年、するどく「じゃああんで生まれ変わりがあるってわかるの」と切り込んできた。別の男子が、やべーたしかに、生まれ変わらない派になろっかな!? と揺らいでいる。そうすると、体をくねくねして考えていた少年が「じゃあなんでお前は死んだら無になるってわかるんだよ」と言い返した。
 ジャンケレヴィッチの話で言えば、一人称の死は経験できない死だ。なぜなら、死んだことを経験するわたしたちはもういないから。
 少年少女たちは互いみ顔を見合わせて、ぐぬぬ・・・・・・と考えている。
 対話をするとは、他者に出会うことだなあと思う。見慣れた友だちが「何か自分とは異なる、わけのわからないことを言う存在」に姿を変えてしまう。うそー無になるのかよ。えええ、魂があるなんて。そしてわたしたちは、対話をつづけるうちに自分自身もまた、自身にとって他者であることを発見する。しゃべりながら、なんだこの思想? と自分でびっくりする。明証的だと思っていたことが、ひとに伝えようとした瞬間に手元からつるつる逃れていくうなぎに変貌してしまう。

〜中略〜

 「じゃあ生まれ変わりがあるとして、それってどういうことか考えてみよう」と提案した。生まれ変わりを主張するひとは数多くいても、その内実はかなり異なっているらしい。意外にも口火を切ったのは、メガネ少年だった。彼は自分の意見にいつまでも拘泥せずに「生まれ変わりがあるとすれば」の先を楽しそうに考えることができる。

他者と出会うこと、とことん考えることの大切さと面白さが書いてある。
自分が変わっていくことを楽しまなくては勿体ないのだ。

最後に、考えを変える・変わる姿が印象的な映画たち。

わたしはロランス

リリーのすべて

ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから

聲の形

ぜひどれか観たり聴いたり読んだりしてみてください。


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