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なぜ書きたいのか なにを書きたいのか|自己紹介1

昨年末からnoteに日記を書いている。ありがたいことに少しずつ記事の閲覧数やスキの数も増えてきて、素直にうれしい。

ただ、やっぱり書くのって大変だと思うときもある。
今日見た景色を、あのとき感じた不思議な気持ちを書き表すにはどんな表現をすればいいのか。自分の内側にあるこの感覚を外側したい。一体どんな言葉を選べばいいのか。
朝から晩まで働いて疲れた脳みそを絞りながら、パソコンに文字を入力する。

頭に浮かぶ喜びや怒りを本能のままに吐き出すように手を動かしていたら、いつの間にか熱量のこもった言葉が連なって生々しい文章となっている。そんな書き方ができるのではないかと期待していた。

でも実際は、書こうと思ったことを文章にしても、薄っぺらい。なんか違う。書きたかったことの10%も書けていない気がする。
そこから、文章を足したり削ったり、類語辞典でしっくりくる言葉を調べたり、適切な比喩を探したりする。
たった数行の文章を書くのに、何時間もパソコンに向かう。
それでも納得がいかない。消化不良のような感じ。
自分の表現力のなさに絶望する。
また言葉を探す。仰々しいレトリックを使ってみる。最初から書き直す。歯がゆい。

そんなふうに増改築を繰り返して、出来上がったのは継ぎ接ぎだらけの言葉の塊。

頭で考えすぎて、これが本当に自分が書きたかったことなのかもよくわからなくなる。
文章にする過程で零れ落としてしまったものがたくさんある。
けれど、これがいまの自分の精一杯だと言い聞かせて公開ボタンを押している。

一体誰がわたしの記事なんか読むのだろうかと思ってしまう。
虚空に向かって言葉を放っているような気がして、すべてを消してしまいたくなる。

現状、わたしの書くという行為は自己満足に過ぎず、誰かに強制されてるわけではない。止めたところで誰かから惜しまれることもない。
いつだって止めてよいのだ。

けれども、書くのを止めていないし、これからも可能な限り書き続けたいと思っている。(未だこのnoteを定期的に更新するようになって1年くらいではあるが)

それはどうしてか?

理由は二つある。

一つは、日記やブログのような、顔も知らない誰かのごく個人的な言葉を目にして、どうしようもなく心が震える瞬間があるからだ。

今日何をしたとか、何を考えたとか、どう感じたとか、そういう人生の無意味な記録。それを読んで、共感するとか救われるとかじゃない。その平凡さに、何事もなさに、胸をかきむしられる。
人間である以上避けられない孤独。世界の大きさを突きつけられるような感覚。その不思議な感覚がわたしの心をつかんで離さない。ちゃんと宝箱に仕舞っておきたい。

誰かのごく個人的な言葉がわたしの心を震わせるように、わたしの個人的な言葉が誰かの心の奥に届くかもしれない。
それならば、わたしの日々の記録だって書き残す価値はあるはずだと思った。
まずは日記という形でなら自分にもできるし、やりたい。

わたしの記憶は、わたしが残しておかなければ、わたしが忘れてしまうのと同時にこの世界から消えてしまうのだから。

それはあまりに惜しい。些細で無意味なことであっても、わたしはしっかり感動していて、それを思い出すたびに生きてて良かったと思えるのだから。

そのときの感覚を、できるだけありのままの形で、ちゃんと残したい。
そして誰かに伝えられたなら、それほど以上うれしいことはない。

もう一つの理由は、文章を通じて人と関係性を築きたいからだ。

わたしは社交的な人間ではなく、特に初対面の人や関係性が薄い人と会話するのが苦手だ。

もともと人と話すのが得意だ、好きなだという人ともたくさん出会ってきた。これまでわたしはそういう人たちを心の底から羨ましいと思ってきた。
いまの社会は、人と話すの得意という素質を持つ人に、かなり有利にできている。学生時代は目立つ舞台で活躍できて先生に褒められるし、友だちが多くて楽に過ごせる。就活になっても面接やグループワークで力を発揮できると内定に大きく近づく。

わたしはそういう人と比べて劣等感を抱き続けてきた。真面目に努力を続けてきたはずなのに、大事なところで、人の目を見て話せない。緊張して頭の中が真っ白になる。声が震える。顔が真っ赤になる。目に涙が浮かんでくる。自分が話している内容を妙に客観的に捉えてしまって、適切な続きの言葉を見つけられずに空回る。

そんな経験を繰り返していくうちに、人と話すことが苦手だったのが、いつしか人とのつながりを持つこと自体が苦手になっていった。
「自分は人が嫌いなんだ」と自らを納得させて、誰かと関係性を築くことを諦めていた。

だけど先にも書いたように、わたしは誰かのごく個人的な言葉に触れることが好きだ。
自分の部屋にこもっているつもりでも、本やブログを読んだり、ドキュメンタリーを観たりして、たくさんの人の言葉を求めていた。そして感動していた。

気づくのに時間がかかってしまってけれど、わたしはやっぱり人が好きなのだ。とてもうれしかったし、それだけで自信が持てた。

会話を通じて人と関係性を築くことが苦手なんだったら、別の方法で挑戦してみたい。そして自分に一番向いてる方法は文章だと思った。

相手の文章を読んで、好きなところを見つけること。
そしてできるかぎり愛のままを書くこと。

時間はかかるかもしれないが、納得がいくように、自分らしく、人と関係性を築いていきたい。

そう思っている。

改めてどんなことを書きたいのか

自分がいいなと思ったことをちゃんと書きたい。なにがいいと思ったのかだったり、そのときの心の動きや感覚だったりを、できるだけそのまま書きたい。

自分が疑問に思ったことや、もやもやしたことについても同じ。

あと、これまで書いた日記を読み返して思ったのが、自分は矛盾しながら生きてるんだなということだ。

本当は会いたくて仕方ないのに、会いたくないと言った日があったり。
不快な飲み会で、大嫌いな人のことをなぜか庇った日があったり。
謝りたいと思ってるのに、謝れなかった日があったり。

一貫性に欠けるとか信念がないとか言われそうだけど、個人的には、誠実でありさえすれば、矛盾していることは決して悪いことだとは思っていない。

おそらくわたしだけでなく人はみな、毎日生きるなかで大なり小なり矛盾しているはずだ。人生は矛盾に満ちている。

たとえば、畜産農家が、大きな愛情を注いで育てた牛や豚を、出荷して換金すること。
たとえば、消費者として牛や豚を食べながら、イルカや鯨を殺すことに反対を表明すること。

こうした揺らぎや不完全さが、人間の豊かさでもあるのではないかと思う。

だからわたしは、矛盾することを恐れたくないし、そのときの心の動きをちゃんと書き残したい。

noteを書くうえでの目標(1)

友だちがほしい。

これまで狭く深く交友関係を築いてきて、そこに後悔も不満もない。

だけど30歳を前にして、自分の人生の輪郭が見え始めたいま、その形を固めてしまいたくないという気持ちが出てきた。

どんな人と友だちになりたいかというと、正直よくわからない。こればかりは感覚的なところだと思う。
だけど理想の友だちを想像するならば、
自分と似てるところもあれば、違うところもあって、同じ風景を前にしても、全く新しい視点に気づかせてくれるような人がいい。

noteには、嫉妬するほど良い文章を綴る人がいる。どうしてこんな美しい表現ができるんだろうとか、どうしてこんな熱量が言葉にこもるんだろうとか、どうしてこんな些細な瞬間を切り抜けるんだろうかとか。

そういう風に思わせてくれる人たちは、一体どんな生活をしているんだろうと気になる。友だちになりたい。

自ら選んだ人と友だちになる、ということは、わたし自身もその人に選ばれる必要があるわけで、そういう意味でもnoteが適した場だと思った。
わたしが日々思ったことや感じたこと、それをどんな言葉にしているのか。その辺りを知ってもらえるから。

こんなことを言ってしまうと、noteが半分ラブレターのようにもなりそうだが、それで良いと思ってる。書くのが楽しくなりそうだし。

友だちと何がしたいかと言うと、お互いの好きなことについて自由に語り合いたい。ゆっくり散歩がしたい。たまに交換日記的なことがしたい。

あと、大縄と合唱コンクールがしたい。
あと、楽器が弾ける人は教えてほしい。

なので、これを読んでわたしに興味を持った方。インスタやTwitterのDMで、あなたが書いた文章などを送ってきてもらえるとうれしいです。
(お返事できない場合もございますことは何卒ご容赦ください)

noteを書くうえでの目標(2)

ここに書いてることをZINEにまとめたい。

一緒に頑張れるような仲間もほしい。

文学フリマに出たい。

一緒に出店してくれる人もできたらうれしい。

* * *

わたしの好きなことなど、パーソナルな自己紹介はまた別の記事であげたいと思います。

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