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森鴎外『高瀬舟』読書感想文(たかつかな)

 『高瀬舟』は京都の高瀬川を行き来する小舟のことだ。江戸時代には、この高瀬舟で罪人を遠島へ運んだという。春の夕暮れ、同心の庄衛門は、罪人の喜助を護送する命につく。喜助は泣くでも嘆くでもなく、ともすれば希望を抱いているような様子で、つい「なにを思っているのか、なぜ人をあやめたのか」と庄衛門が問うた。

 喜助は子どもの頃に親を病気で亡くしており、弟と二人で支えあって何とか生きてきた。ところが、弟が病気になって寝たきりになってしまう。弟は「一人で稼がせては済まない」「どうぞ堪忍してくれ。どうせ治りそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたいと思ったのだ」と自分の体に刃を刺した。しかしそれでは死にきれず、喜助に「苦しい、早く抜いてくれ」と懇願し、その刃を喜助は抜いてやったのだ。そこを近所の人に見られ、御用となったという話だ。

それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。

庄衛門の「腑に落ちない」という感覚が、黒い川面と朧月、沈黙に吸い込まれていくような終わりだった。

 私も庄衛門と同じような心持になった。「これが罪だろうか」と。日々暮らせるお金さえあれば、体を治してまた二人で支えあって生きて行けたかもしれない。生まれが貧乏だから、親がいないから、この二人は「死」を選んだのだ。

 そういった話は数知れずあり、「喜助」と同じ立場の人間も「弟」と同じ立場の人間も、たくさんたくさんいたのだろう。現代の日本には「生活保護」や「障害年金」というシステムがある。働けなくなってしまった時に、みんなでその人の生活費を出そうという税金の使い道だ。自分だっていつお世話になるかわからない。喜助のような苦労・犯罪を無くすための、とても素晴らしい福祉システムだと思う。そのシステムが円滑に使用されたなら、きっと彼らの二の舞は踏むまい。お互いを思いあっているのに、真っ当に生きられなかったのは「お金」がなかったせいなのだから。
あの時に「病気が治るまでは生活保護のお世話になる」ということができたなら、喜助は大切な弟を失わずに済んだし、弟もゆっくり養生して体を治し、また二人で働き支えあいながら生き延びていただろう。そう感じさせる喜助の人柄が丁寧に描かれている。

 ところで、この「生活保護」というシステムを頼ることを「悪」だとする風潮が近年みられる。2020年の10月には、その生活保護費の基準が下げられるらしい。つまりは減額だ。あれ?確か2018年くらいにも減額されていなかったっけ?「生きるのに必要なお金」であるはずなのに、足りないのでは意味がない。生活苦になっても「生活保護」が受けられない人たち、「生活保護」を受けているせいで非難される人たちの自殺や餓死・衰弱死・無理心中のニュースを目にするたびに怒りを覚える。ニュースに取り上げられないものも多数あるだろう。いや、数ではない。人の命だ。そのひとつずつが最も重要なはずだ。
 不正受給?それは全体の何パーセントの話だ?「実際に生きるお金に困っている人たち」にお金が行き届くこと、人の命を救うことの方が優先ではないか。

 一方で私の支払った税金の使われ方は不透明だ。黒塗りだ。全くどちらが「悪」なのか。弱い立場に追いやられてしまった人たちを突っつくよりも、強い立場で権力を振りかざしている人たちを徹底的に叩くべきだろう。なにもかもが本末転倒だと強く感じている。

 森鴎外は医師でもあった。命を助けることに注力し、理想・理念を重視したと言われている彼が、2020年の現代にも喜助と弟のような人がまだたくさんいると知ったら、どんな思いだろう。
彼は和漢方医が主だった時代に、ドイツに留学し西洋医学を学んでいる。また、いち早く女性作家を高く評価していた人物でもあるらしい。福祉や差別について世界基準にアップグレードした状態で書かれた新作『100年後の高瀬舟』を読んでみたいなあ、とも思う。

森鴎外『高瀬舟』読書感想文 たかつかな


ちなみに「『留守』の時代背景の勉強のために『高瀬舟』を読んだよ」とイシゲくんが言っていたので、私も読んでみた。しかし発表されたのは大正時代だけど描かれているのは江戸時代の話なので、『留守』の時代背景とは少しずれている。とイシゲくんに伝えたら「勘違いしてたね、ごめん」と言われた。まあ、そういうこともあるよね。

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