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高層ビルからの避難で東日本大震災を思い出す

東日本大震災の時、私はたまたま日本国内で勤務していました。東京の高層ビルで勤務中に地震にあったため、とても激しい揺れを感じました。あの時の恐怖は今も忘れることができません。

その日は帰宅をあきらめて、翌朝自宅に戻りました。当時、南国からの研修生が日本に来ていて、なかなか連絡が取れなかったのですが、やっと電話がつながり無事であることを確認してホッとしたことを思い出します。

南国に赴任してトータルで20年近くたちますが、南国で地震を感じたことはほとんどありません。

一度かなり離れた他国で起こった大地震の揺れを感じたことがあります。おそらく南国での震度は1程度。高層ビルの高層階でも体感的には震度2程度の揺れだったと思います。しかし、非常ベルが鳴り、全員ビルの外に避難させられました。もちろんビルは日本のような耐震設計はされていないので、少しの揺れでもビル自体が大丈夫か不安です。

結局その日はビルの中には戻ることができず、そのまま帰宅となりました。

このように地震慣れしていない南国国民ですから、日本での研修中に東日本大震災に遭遇した南国からの研修生は、さぞかし怖かったことと思います。福島の事故もあり、状況がどうなるか不明だったため、研修はすぐに打ち切られ研修生は南国に帰国しました。

東日本大震災がおこって1ヶ月も経たないうちに、私も南国赴任となり、日本を発つことになりました。余震が続き原発の事故も全く先が読めない状況の中、家族を置いて先に南国へ行かなければならず、後ろ髪ひかれる思いでした。

赴任先の南国では、いろいろな方から優しい言葉、励ましの言葉をたくさんいただきました。今でもあの時南国の同僚たちからいただいた温かい励ましの言葉や祈りの言葉が心に残っています。

震災から1年ほどして、石油関係の学協会のホームページにエッセイを書いてほしいと依頼を受けました。私は震災直後に南国に赴任してきたときに感じた思いを書かせていただきました。ここに転載させていただきます。

久々にエッセイの更新をということで、全く自信のないまま筆をとらせていただくことになりました。
昨年日本は、ただ「未曾有」の一言では済まされない、大変な災害に直面いたしました。亡くなられた方々、親しい人々・思い出の品々・家・仕事…たくさんの物を失った皆さんに、私はかける言葉が見つかりません。ただ一日も早く、それでも生きていて良かったと心から思える日が来ることを祈るばかりです。
立場を越え、国を越えて届く、暖かい励ましの言葉・祈りの言葉を目にし、耳にするたびに、こんなにも人はやさしくなれるものなのだとあらためて思います。人のことを心から思いやり、行動に移せる人々、できれば自分もそうありたいと思います。
石油開発の技術者として現在海外で働いています。技術も大事、プレゼンも大事、負けたくないという強い気持ちも大事、どれも大変大切なことなのですが、結局仕事は人と人とのつながりの中で動いていくものなのだという思いに行きつきます。自分も、我々を励ましてくれた人々のように、やさしく相手の気持ちを思いやれるのだろうか。それがどんなときにもゆるぎないものとして自分の中に持ち続けることができるのだろうか。そんなことを心の片隅に置きつつ、今日も深呼吸をして仕事に取り組みたいと思います。

先日久しぶりに南国のビルで非常ベルが誤作動し、高層ビルから階段で避難することになり、東日本大震災を思い出してしまいました。

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