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鶴ヶ島の思い出「第2期」

2才半ぐらいから高校を卒業するまで過ごした埼玉県鶴ヶ島町 (現 鶴ヶ島市)。私にとって鶴ヶ島の思い出は関越自動車道の開通の前後で大きく2期に分けられます。

関越自動車道の工事が本格的に鶴ヶ島町内で始まり、私の実家もその関係で同じ町内で引っ越すことになり、私は転校しました。

鶴ヶ島はそのころ急激に人口が増えていました。転校先の小学校は前の学校とは違い、駅にもやや近く、周りに住宅街も多く、少しあか抜けた印象でした。塾に通う友達や、市立中学校を受験する友達もいました。ここで高学年を迎えたせいもあるかもしれません。ここでの鶴ヶ島の印象は、前の学校とは大きく変わるものでした。

もちろん、過酷な缶蹴りなど、外で遊ぶこともありましたが、勉強のことなどもだんだん気になるようになりました。

そんな小学校を卒業して、当時町内に1校だけだった中学校に入学しました。

結局町内2つの小学校の卒業生が集まってきたので、前の学校の友達ともまた同じ中学校に通うことになり、入学当初から知り合いが多かったのは良かったです。そして、小学校は鉄筋校舎に変わったのに、中学校は入学当時まだ木造で、中学校の周りには田んぼが広がり、関越道の影響も少なく、なんとなくまだ牧歌的雰囲気が残っていました。

それでも中学に入り、鶴ヶ島の自然はだんだん私にとっての遊び場から、勉強の場にかわっていった気がします。自由研究や科学部の研究、農場 (農業経営大学校) での写生、自然を題材にした詩の創作など、自然の中で学んだこともたくさんあります。

関越自動車道が開通して、鶴ヶ島の雰囲気は大きく変わった気がします。けれども、私にとっての「第2期」の鶴ヶ島の思い出も、やはり自然とともにありました。

高校では「鶴ヶ島ってどこの島?」などと定番のいじりもありましたが、私は鶴ヶ島で本当に良い少年時代を過ごせたと思います。


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