『オオサカ・ティーンエイジ・ドリーム』
ここにあることは、まあ、大体そのとおり起こった。今から30年前、私がまだ大学生やった頃の話である。神様、もしいるなら、あの男に最大限の御加護を。
*
私は布団の中におった。年末に友達何人かと新年の抱負を語り合った時、「2021年は絶対に早寝早起きをする」と誓ったけど、このとおり。体温が伝染した温かい布団の中で、くだらんYouTubeの動画を見とったらインターホンが鳴り「宅配便でーす」とやる気のない男の声が聞こえた。こういう時は居留守に限る。なんでかって、私はいま自分の時間を満喫してるのやから。この自由を奪う権利は宅配業者にはない。だいたい、こんな年始に何を届けるものがあんねん。またインターホンが鳴る。しつこいしつこいもうええって。インターホンが連打される。「そこに置いといてください!マジで!」と、かなりトゲのある調子で叫ぶと、忌まわしい電子音は鳴り止んだ。ばこん、と床に箱が叩きつけられるのが聞こえた。いらいらで完全に目が覚めてしまったし、何が届いたのか、気にはなるので、のそのそと布団から這い出て、目をこすりながら玄関へ向かった。
私のお気に入りのナイキのスニーカーの上に30センチ四方の段ボール箱が無造作に転がっとった。底の角が一箇所大きく潰れてる。見たところ中身はそんなに重いものではなさそうやった。まあとりあえず空けてみるか、とその箱を持ち上げようとしたとき、私は猛烈な違和感に襲われた。なんか変。なんかがめっちゃ変。箱そのものが、というよりも、この状況。とてつもない異常事態が発生している予感。違和感の正体を探るために私はそのままの姿勢、しゃがんで箱に両手を伸ばした体勢のまま、ここまでの一連の流れを思い返してみた。
まず、私は布団の中でYouTubeの「ノコギリクワガタ100匹vs真ダコ!勝つのはどっち!」という何かしら色々と問題のありそうな動画を見ていた。そこでインターホンが鳴り、男の「宅配便でーす」の声。無視したけど、何度も何度もインターホンが鳴るので、私は癇癪を起こしてもうてヒステリー丸出しの声で「そこに置いといてください!」と叫んだ。そして私はここに来た。
本来なら、玄関の扉を開けたところ、すなわち屋外にないとあかんはずの箱が扉の内側、すなわち屋内にある。「貫通してもうてるがな」と、私はぼそっとつぶやいた。いや貫通は非科学的すぎる。宅配業者が中に入ってきた可能性はないんか。鍵を見る。ドアノブを挟んで上下に二つあるサムターンはしっかり「一」になっている。ピッキングの可能性は低い。仮にあの男が高速でピッキングを働き扉を開け、靴の上にこの荷物を投げ置いたあと、扉を出て外側から再びピッキングで施錠をしたとすれば一応の説明はつく。せやけど、なんでそんな意味不明な行動をとる必要があるのかわからん。その他あらゆる可能性を考えてみたけど、「貫通した」と思う以外にこの状況を飲み込む方法はなかった。さっきからずっと伸びてる両手の先を見やる。宅配のラベルがない。さっきの男が宅配業者ではないことがわかった。考え出すとキリがないし、私の興味はその時既に、この状況の異常さではなく、箱の中身に移っていた。つまりこの箱にはいったい何が入ってんねんということやった。
箱を持ち上げてみると想像以上に軽かった。ほんまに中身が入ってんのか疑いたくなるほどの軽さで、「中に入っていたのは空気でした!」という最悪のオチまで想像した。リビングのローテーブルの上に箱を置き、カッターナイフで粘着テープの真ん中を切る。閉じた仏壇の扉を開けるように、そっと観音開いた。中に入っていたのは、服やった。
服は服でも、私の見慣れたものとは明らかにちゃうかった。なんせ、まず銀、銀色や。銀色の服。捨てられたかのように、洗濯機の中に放り投げられたかのように不細工にくるまっている銀色の服。右手の人差し指と親指で、銀色の一端を持ち上げてみた。鋭く研ぎ澄まされた刀みたいな光沢に、不覚にも「きれいなあ」と声を出してしまった。左手の助けも借りて、箱から引っ張り出してみると、それは全身タイツやった。銀色の全身タイツ。私は、おもろいやんと思った。日本刀のような鋭い銀色の光沢を持つ全身タイツ。しかも鉄の扉をも貫通する全身タイツ。なんやこれは!もうあかん。と、気がついたら、スヌーピーのスウェットを脱ぎ捨て私は銀色になった。
鏡に映る自分の姿はなんとも滑稽でおもろいもんやった。躊躇していた頭の部分も、思い切ってかぶってみる。よりおもろい。鏡の中にはニヤニヤした銀色の私がおった。しばらくこれ友達に見せたらウケるやろなあ、写真撮ってみんなに送ろかな、とか考えているその時やった。銀色の光沢が突如とんでもない閃光を放った。目の前が真っ白になる。あ、なんかやばいことなったな、と感覚でわかった。
*
目が覚めると私はゴミ捨て場におった。雑居ビルのはざまのゴミ置き場、飲食店で出た残飯がたんまり入った袋の上で銀色のまま横になっていた。ゆっくり身体を起こすと、自分の足元、じっとり油で濡れた地面に「デリバリーヘルスなにわスケベっ子 キャスト ベロベーロ由美」と書かれた名刺が落ちていた。ビルの隙間から5メートルほど先に見えている道路、この隙間の出口に向かって歩いている途中、どかあん、という爆音が鼓膜を突き破った。ドルビーサラウンドなんて屁に思えるくらいのとんでもない迫力の音のあとで、大勢の悲鳴が聞こえた。そしてさっきよりも近い距離で爆発音。続いて悲鳴。ビルの間から見える、道路の向こうにあったビルのいくつかが崩れ落ち、空は赤黒く染まってた。
状況が飲み込めずにいると、一人の男が私のいる隙間に入り込んできた。彼は私を見つけるやないや、銃のようなものを向けてきた。「何やお前は!手を挙げろ!」と男は緊張して上ずった声で言う。「いや、あのう、なんの撮影ですか?」と、なんとなく撮影でないことは理解していたけど、短時間に色々起こりすぎてまだ諸々についていけていない私はあえてヘラヘラした態度で応答した。
「うるさい!さっさと手を挙げんかい!撃つぞ!」と唾を飛ばしながら、男はゆっくり近づいてくる。
「ちゃうんですよ。これ、銀色の、これね、全身タイツを着て、気がついたら、こんなことなってて。あのマジ勘弁してほしいっていうか」
男の顔を見ないように、うつむき加減で早口に説明した。男が銃を下ろす気配がしたので、顔を上げると男は目を丸くして私の全身をなめるように見ていた。私は男の次の言葉を待った。男が何かを言おうとしたその時、「大阪人は皆殺しどすえぇぇぇ!」という女数人の声が聞こえた。
「やばい!過激派マイコ・マイコ・ハンや!おいお前、付いてこい!」と男は突如、私をぎゅっと抱きしめた。
「いやちょっとなにするん、もう。やめて。恥ずかしいって」
長い間、ご無沙汰やった私が頬を赤らめながら話すのを遮るように男は「飛びまぁぁす!」と叫んだ。
次の瞬間、男の両足から青い炎が噴射し二人の身体は宙に浮いた。「ぐぅぅん!」というよくわからないうめき声を上げたかと思うと、ミサイルのようにそこから飛び出し、ビルの隙間を縦にすり抜けた。そのままビルの屋上へ器用に着地した。屋上からは街が一望できた。私の目に飛び込んできたのは、激しい爆撃で燃えるビル、悲鳴を上げながら逃げ惑う人々とそれを追う人々。赤と黒に染まった、大阪の街。
私は徐々に、自分がどういう状況に置かれているかをおぼろげながら理解し始めていた。ここは大阪で、いま戦争が起きている。そして、私の大阪は壊滅的な被害を受けていて、私の知っている人たちはたぶん、みんな死んでいる。
「あ、あの。すみません。これはいったいどういうことなんですか」
「なんや。お前、記憶ないんか?」
「記憶?いや記憶はあるんですけど」
「いやいや、責めるつもりはないで。こんだけのことが起こったんやからな。ショックに対する脳の防御機能が働いて、記憶の一部がなくなるなんてのは珍しいことじゃないで」
「いや記憶はあるんすけど」
「むしろ昨日の大空襲を生き延びただけでも大したもんや」
「いや記憶はあるんすけど」
「なんやお前私語多いな」
「私語てなんなんすか。あんたも私語してるでしょずっと」
「それにしても、なんやねんその格好」
「あ、これですか。全身タイツです」
「全身タイツ?パーティーグッズかなんかか?」
「よくわからないんですけど、なんか、家に届いて」
「誰から?」
「わかりません」
「わからんてどういうことやねん、差出人書いてあるやろ普通」
「ラベルがなかったんですよ箱に。宛名も差出人も書いてなくて」
私は箱が玄関の扉を貫通したことを説明しようとしたが、ほんまもんのアホやと思われそうだったのでやめた。
「ようそんな怪しい箱開けたな」
「興奮してたんで。んで中開けたらこれが入ってて」
「ふーん」
男の興味が段々薄れているのを感じた。
「それで、面白そうやから着てみたんです。鏡の前に立ったら案の定、おもしろくって。ニヤニヤしてたんです」
男はとうとう相槌をうつのをやめ、遠くを見ていた。もう、私の話を聞いているのか、聞いていないのかわからなかったが、構わず続けた。
「そしたら急にこの銀色がバって光って、目の前が真っ白になったんです。で気がついたらさっきの場所に」
「ちょっと待て。いまなんて言うた」
「いやだから、この銀のタイツが光って。私気を失ってたんですかね。長いこと。その間にこんな戦争?が起こったってことなんですかね」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれちょっと待ってくれ。えっと、整理させてくれ」
男はアメリカ人のような身振り手振りで言った。
「つまり、なんや、お前がそのタイツを着た時はまだ、大阪はこうなってなかったと言いたいんやな?」
「言いたいというか実際そうでしたけど。その前の日は友達の家でマリオカートして遊んでましたし」
「俺は人生でこんな質問を、冗談じゃなく、本気で投げかける日が来るとは思わんかった」
「な、なんですか」
一瞬の間があいた後、男は自分の言葉を確かめるように、丁寧に言った。
「お前がその、タイツを着たのは西暦何年何月や?」
「2021年。2021年の8月です」
男は目を丸くして、怯えているとも感動しているともとれる、なんとも言えない顔で私の顔をまじまじと見つめいた。
「つまり、お前は過去から来たって。そういうことやな」
「い、いまはいつなんですか」
「2026年8月や。お前がその銀色の全身タイツに身を包んだ、ちょうど5年後や」
この時の私は、もう、自分がタイムスリップして2026年にやってきたのだとしてもすこしもおかしいとは思わんような気持ちになっていた。2021年の情勢ではこんな爆撃や空襲を伴う内戦が起こりうるはずがない。そして隣の男の空を飛ぶ靴。そして何よりこの銀色の全身タイツ。閃光を放ったのを確かにこの目で確認した。思い返せば、箱が扉を貫通したところからなにかが始まっているような気もする。もしかして。あの男、あの男はもしかして。
「あの、さっき説明をあえて省いたんですけど」
「なんや」
「箱が扉を貫通したんです」
「は?」
私は例の一連の流れを丁寧に説明したあと、ゆっくり男に問うた。
「もしかして、その男ってあなたですか?あなたが私を、ここに連れてくるためにあの全身タイツを私に届けた。スーパーヒロインにふさわしいのは私だ!ってことになんらかの会議でなって、あなたが私を2021年から2026年に…」
「ないないないないない!ない!」
興奮して早口で話す私を遮るように男は叫んだ。
「いやぁ、わかるで?わかる。めっちゃわかる。」
「何がっすか」
「その展開の方がお話としては良く出来てるかもしらへんな」
「違うんすか」
「残念ながら、ちゃうなあ。お前、あれやろ。B級映画とか好きやろ?」
「なんなんすかそれ。でも、あの男があんたやって考えてもおかしくないっすやん」
「甘い。もう考えが甘い。甘すぎる。もう生クリームの4万倍、甘い」
「どんだけ甘いねん」
「お前のそのシナリオには穴が多すぎる。挙げたらキリないけど、まず。なんで俺は過去に戻れんねん」
「2026年ならもうそういうタイムマシン的なもんが出来てるんかなあって」
「まだまだや。空を飛べても時空は飛ばれへんねん。ほんでもし仮に俺が時空を飛ぶことができたとして、なんでわざわざお前を、2021年から2026年に連れてくんねん」
「私には時代を切り開く特別な力とか血筋みたいなのがあって」
「ないやろ、そんな力も血統も」
「その私に2026年のこの悲惨な状況を見せて、2021年に戻って解決させる、みたいな?」
「俺がやるわ!」
「え?」
「なんで一回お前を経由すんねん。もし俺が過去に戻れるなら、俺がその原因を処理するわ。俺かて男やぞ。そんなロマンチックでスペクタクルな偉業成し遂げてみたい欲は存分にあんねん。なんでどこの馬の骨かもわからん華奢な若いネーチャンに頼まなあかんねん」
「はあ…」
「でも、たったいまお前はめちゃくちゃいいアイデアを提案してくれた。その妄想癖も捨てたもんじゃないな」
「なんのことすか。散々馬鹿にしといて」
「現在から過去に戻って、なんでこうなったか原因を突き止めろ。そんで解決しろ」
「えちょっと待ってくださいよ」
「なんやねん、あるんやろお前に特別な力が」
「いやいやいや。マジで言うてるんすか」
「はよ、行け。救ってくれ。もうどうにもならん。俺の知ってるやつはみんな爆撃に飲まれて死んだ。救えるのはお前しかおらんかもしらん」
「さっきとまるで逆のこと言うてるやん。あんたが行ったらいいじゃないすか。あるんでしょロマンチックでスペクタクルな欲求が」
「あるけど、お前そのタイツ脱がれへんやろ」
下に着ていたのはキャミソールと丈長めのパンツだったので、男の想像していたようなセクシーな格好ではなかったものの、ワクワク感、もしかしたら私の手でこの大阪を救えるかもしれない、いや救ってみせる!というテンションにだんだんなってきて、気が付いたら「やったりますわあああ!」と叫んでいた。
30分くらい「おりゃ!」とか「えりゃ!」とか叫びながら時空を飛び越える努力をしたけど、うんともすんともやった。
「あの、マジで、冷めるわ。だいたいこういう流れの場合すっといくねん。かっこよく颯爽と過去に戻るもんやねん。センスないわお前」
「うるさいな。頑張ってんねん黙っといて」
「鏡ちゃうん?」
「え?なに?」
「いやわからんけど、お前が2021年からここに来た時は鏡見てたんやろ?ほなそれが条件なんじゃないの?わからんけど」
「鏡、どこ」
「知らんわ、自分で探せや」
「こわい。爆撃あるし。死んだらあかんやろ私。取ってきて鏡」
「お前、マジであれやな」
「あれってなんやねん」
男はこちらをにらみ付けながら、「飛びまぁぁす!」と叫び赤黒い煙の中に突っ込んでいった。数分後彼は両手に大きな全身鏡を持って戻ってきた。顔は真っ黒になっていた。
「遅いって。何分待たせるん」
「まず、ありがとうやろ。殺すぞ」
「顔、黒いで」
「うるさい、はよ行け」
男が鏡を雑に私に向ける。ゆっくりと鏡に近づく。すすで汚れた鏡面を手のひらで拭く。おもろい。いつ見てもおもろい。
「なあ、これおもろいよな?」
「なにが?」
銀色がじっくり発光しだすのを見ながら言う。
「全身タイツって、おもろいよな」
次の瞬間、鏡の中の銀はあの時と同じように閃光を放ち目の前が真っ白になる。
「おもろないで」という男の声が遠くで聞こえた。気がした。
*
私は布団の中におった。頭がぼうっとする。まどろみとはこの状態のことを言うのやろなあと思った。ゆっくり目を閉じる。なんちゅう夢やねん。思わずにやつく。下手な映画よりよっぽど面白かった。本屋で平積みの小説の何倍も楽しかった。それは内容がというよりもリアリティによってやろなあ。映画はどこまでいっても観るものやし、どんなに優れた文学作品もどこまでいっても読むもの。でも夢は違う。ほんまやと思う。その中に自分がいるとき、そこで起こることの全てをほんまやと感じる。たまに、夢の中で夢であることがわかる、というようなことを自慢気に話すやつがおるけど、そういうやつはろくな人間じゃない。もはや人間じゃない。それはちょっと言いすぎやけど、楽しさでいうたら絶対にこっちのほうが上。
体温が伝染した温かい布団の中で、さっきまでの夢を思い返していた。なんかようわからん小包が届いて、銀色の全身タイツが入ってて、それ着たらめっちゃ光って、未来にいって。えっと、なんやっけ。あ、そうか大阪が爆撃されてんねんな。2025?いや6か。2026年。今から5年後、の未来にタイムスリップしてな。うんうん。ほんで?あ、男か。生意気な男がおって、そいつが、そう!空飛んだ!まじ、空飛んでた!5年後人類は空飛んでますよ皆さん。空は飛べても時空は飛ばれへん。ってなんか男が言うてたな。時空、時空?私はドキッとして、布団をはねのけると同時に目をつぶった。夢?ほんまに?あれ、夢じゃなかったらどうするん?だってだって、全然あり得るやん。現実世界の私がタイムスリップして帰ってきて今、の可能性、全然あるやん。この目を開けて私が銀色の全身タイツを着ていたら、本当。スヌーピーのスウェットを着ていたら夢。そういうことやな。仮に夢じゃなかったとしてもそうなったらそうなったでおもろいやん、あの時私は救ってやる!って本気で思ってたし。私が救うしかない!っていう使命感もあったし。カウントダウンしよ。な。カウントダウン。いくぞ私。
3。2。1。
目を開けて、確認したところ、私が着ていたのはスヌーピーのスウェットやった。「はい、お疲れさまでした~」とそこそこ大きい声で独り言をいって、シャワーを浴びてカップラーメンを食べた。女友達から飲みの誘いがあったから、夜は居酒屋にいったが、しょうもないな、と思った。今までは楽しかったはずの飲み会も、あの夢の後では霞んでしまう。「朝までいくっしょ!」という友達の誘いを雑に断り、終電で帰宅しその日は寝た。
*
それからは、なにもなかった。何度か部屋の中をひっくり返して銀色の全身タイツを探したこともあったが、見つからんかった。インターホンがなる度胸騒ぎがしたが、期待は裏切られてばかりやった。数週間もすればもうインターホンが鳴っても何も思わなくなっていた。自然と、そんな夢を見たことさえ忘れていった。
そんな普段の日常が続いたある日。お風呂で湯船に浸かっていると、どんどんどん、とドアを叩く音が聞こえた。私はびくっとした。どんどんどん、という握りこぶしでドアを叩く音。どんどんどん。段々と、音の間隔が短くなっていく。鉄の扉を叩く音と心臓の鼓動が混ざって、わけがわからなくなる。どんどんどんどんどん!どんどんどんどんどんどんどんどん!私は大きな声で「そこに置いといてください!マジで!」と叫んだ。あの時と同じように、叫んだ。音は鳴り止んだ。私はしばらく興奮状態やった。耳を澄ますこと数分、何も音はしなかった。大きく深呼吸をする。何度も何度も、吐いて吸って吐いて、吸った。私はのぼせながら、あの時と同じように、つまりあの箱が扉を貫通したときと同じように推理をはじめた。
まず、叩いたのは誰か。ここはひとつ冷静に考えたい。一人暮らしの女の家の扉を、インターホンを鳴らさず手で叩く。これは明らかに異常な行動や。普通じゃない。一番可能性として高いのは、性犯罪者。駅前とかで目星をつけて、ストーキング。家の場所を突き止めて夜遅くに訪問、部屋の明かりは点けたままやから、中にいるのは確実。扉を叩いて反応を窺う。扉を開けてしまえばそのまま押し入って犯行に及ぶ。扉を開けない、居留守を使われれば日を改めるか、ピッキングで。そう、ピッキングで中に入って、襲う。今の状況で考えると、私が風呂に入っているのを確認したあと、部屋のどこかに隠れる。私が風呂から上がったタイミングで襲う。風呂上がりは薄着やから話が早い。
次に可能性として考えられるのは、謎の男。つまりあの時と全く同じかそれに準ずる人物の仕業で、風呂から上がればあの玄関にまた箱が置いてあるというやつ。私としてはこっちの方が、いい。いや、嬉しいは言いすぎやけど、少なくとも性犯罪者に襲われるよりは何万倍もマシや。いや言いすぎじゃないかもしれへん。さっきの叫びはなんやった?『そこに置いといてください!マジで!』と、あの時と全く同じセリフを言ったのはなんで?期待感。そう期待感やった。もちろん単純な、大きくて連続性のある音に対する生理的な恐怖が大半を占めていたけどそれだけなら、黙って震えていればいいし、仮に大きな声を出すとしても『助けてください!』とかでいいはずや。置いといてください!と言った。何を、?箱。あの箱、というか銀色の全身タイツ。でも、あの時聞こえた。ばこん、という、床面に叩きつけられるような音はしなかったことを思い出して、萎えた。違う。謎の男じゃない。箱はないし、あれは夢。すこしでも期待してしまった自分を恥ずかしく思ったし、いつまでこんなメルヘンでおるつもりやねん、と自分を蔑んだ。相対的に性犯罪者が部屋に潜んでいる可能性が上がった。部屋に出てみないとわからない。今考えれば、扉の叩き主は家賃の催促に来た大家の可能性も十分あったし、ただのいたずらであってもちっともおかしくないのだけど、この時の私はなぜか、絶対に性犯罪者だと確信していた。
私はいつまでも風呂の中いるわけにもいかないし、スマホも部屋に置いてあるから助けも呼べない、もう自分自身でこの状況を打破するしかないことを了解し、もうこうなったら戦うしかないと思った。素早く風呂から上がりバスタオルで身体を拭く。髪の毛の最低限の水分だけを拭き、頭にそのバスタオルを巻く。いつもなら半裸の、このままの状態で部屋に行き、タンスの中からスウェットを出して着るのやけど、今回はそれはできない。仕方なくさっきまで着ていた服を洗濯かごから引っ張り出し、雑に着た。洗面所で武器になりそうなものが、バスマジックリンとムダ毛処理用のカミソリくらいしかなかったので、右手にカミソリ、左手にマジックリンを装備した。まず敵が出現したらマジックリンを相手の目に噴射、うろたえているところをカミソリで攻撃。顔に傷をつければ十分や。いざとなったら頸動脈をすぱっと切ればいい。よしいけるいける。
洗面所の引き戸をそっと開け、首だけ出して部屋の様子を見る。目を凝らし、耳を澄ます。全神経を集中し、部屋を観察する。異変はない。引き戸をゆっくりとあけ、身体を出す。勇気を振り絞り、ゆっくり部屋の中央に進む。いつ敵が現れてもいいように、左手の人差し指はマジックリンのトリガーにかかっている。「出てこい!!!」と叫ぶ。もちろん敵を威嚇するためでもあったけど、どちらかと言えば自分を奮い立たせるために、叫んだ。
その時、背後に気配を感じた。一瞬で私は玄関方面に注意が全くいっていなかったことを悟る。瞬時に振り返ると同時に目をつぶってマジックリンを噴射する。何度も何度もトリガー引いた。「うわあああああああぁぁぁぁぁ!!!!」恐怖と悔しさ、負けてたまるかの思いで目がにじむ。
「あの、なにしてんの」
聞き覚えのある声。
「それ、おもろないで」
あいつや。あいつの声や。
「ずっと待ってんねんけど、いつ来んねんお前」
私は顔をあげられへんかった。どんな顔をしていいかわからんかった。申し訳ない気持ちでいっぱいやった。ごめんごめん。ごめんなさい。夢やと思ってました。
「お前が救うんちゃうん、豪語してたのに」
ごめんって。だってないねんもん全身タイツ。ないし、そんなん、夢やって思うやん。普通。
「顔上げろよ」
いやや。無理。上げたくない。どんな顔したらいいかわからんし、泣いてるしわたし。
「いいから顔あげろや。顔あげたら夢から覚めるぞ」
「え?」
私は反射的に顔をあげた。
そこには誰もいなかった。あいつはいない。部屋には私しかいなかった。何分経っても、あいつも、謎の男も、性犯罪者も大家も、いたずらっ子も現れなかった。あいつはいない。あいつは夢の中にしかいない。
そのことを噛みしめる度に涙があふれる。私は「はい、お疲れさまでした~お疲れさまでした」と泣きながら言った。バスタオルを頭から取り、マジックリンでべちゃべちゃの床をごしごし拭いた。そのあと、もう一度シャワーを浴びた。そしてカップラーメンを食べた。女友達から飲みの誘いがあったから、夜は居酒屋にいったが、しょうもないな、と思った。今までは楽しかったはずの飲み会も、あの夢の後では霞んでしまう。「朝までいくっしょ!」という友達の誘いを雑に断り、終電で帰宅しその日は寝た。
――――――――――――――――――――――――――――――――
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?