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二階から照之

工事現場の近くのお宅に訪問し「これを差し上げるのでクレーム言わないでくださいね。言ったらお仕置しますよ」とお言付けをしてエリンギを3本を渡すアルバイトしていたことがある。

ネットの募集広告には「工事現場のかんたんな清掃」と書いてあったが、実際の仕事内容これだった。
入ってすぐの頃は何度か募集要項通りに清掃を任されたが、いつの間にかキノコでクレームを未然に防ぐという奇妙な業務が私の担当になっていた。

「きのこ業者が建設会社と手を組んで詐欺まがいのことをしている」
「あのきのこは毒が入っている。昨日食べたらお腹を壊した」
「きのこを持ってきた男の髪型がマッシュルームじゃないのは不誠実」
など、いわれもないデマや誹謗中傷も多かったが、時給2500円。割り切ってやっていた。

週5日、朝9時から夕方5時までの実働7時間。税金など色々引かれても手元には月30万円残る。
高卒でなんのスキルもない私にとっては十分すぎる収入だった。

ある日の夕方。朝はキノコでいっぱいだったのにその頃すっかり空っぽになったリュックを背負って、
最寄り駅から家に帰っている途中、道に迷ってしまった。
私は周りに誰もいないことを確認して、「わたしはぁ、道に迷いましたぁ」と言った。
アマチュア小劇団にいるような、自分には才能があると信じ込んでいるタイプの、どうしようもない役者みたいにわざとらしく、そう言った。
少し先のどこかで電線に止まっていたハトが飛び立った気がした。

最寄り駅から自宅までの道を迷うなんて。
恥ずかしくなった私は再び周囲をちらっと確認し「慣れってこわいぜぇ」と言った。
もちろん先ほどと同じように芝居がかった口調で。
なぜそんな口調になっていたのかはわからないが、とにかくもう全体的に疲れていたのだと思う。

迷ったとはいえ大きく方角を間違えているとは思えなかったし、思いたくなかった。
このまま歩いていけば知っている道に出るだろう半ば祈るような気持ちで、薄暗い住宅街を進んだ。

5分ほど歩いても全く馴染みの場所にたどり着かないので、さすがの私も迷ったというこの恥ずかしい現実を受け入れることにした。
スマホを取り出して地図アプリを開く。検索窓に自宅の住所を打ち込んでいると、どこからともなく鼻歌が聞こえてきた。
ふと右前方を見上げると一軒家の二階の窓から香川照之が顔をだしていた。
ハミングでなにかのメロディーを歌っていた。どこからどう見ても、香川照之だった。しかしなぜこんなところに。

彼はこちらをにやにやした湿り気のある表情で見つめていた。
彼がサイコパスな役柄を演じている時に見せるあのいやらしい微笑みを想像してもらうとわかりやすいかもしれない。
私は猛烈な恐怖を感じすぐに視線を手元のスマートフォンに戻した。鼻歌の音量が上がった気がした。

あの香川照之にこのあと殺されてしまうのではないかと、本気で思った。
仮に殺されなかったとしても、よくないことが起こるに違いないと確信した。

いや待て。見間違いかもしれない。なにせ俺は疲れているのだ。見間違いであってくれ、これは夢だ夢であってくれ。
もう一度、おそるおそる、ゆっくり視線を例の一軒家の二階へ向けると、しっかりとそこに香川照之がいた。
張り付いたような気味の悪い顔でこちらを見ていた。鼻歌は止んでいた。

次の瞬間、香川照之は「ぼくは、ぼくはぁ!ぼくはぁ!死にましぇん!」と大声で叫びながら、窓から飛び降りた。
咄嗟に目をぎゅっと閉じた。どんっという鈍い音がした。私はしばし動けずにいたがすぐ我に帰り彼を助けに走った。

彼は額から血を流しアスファルトの上でもだえていた。
「大丈夫ですか」と声をかけた。
数秒の沈黙のあと、喉から絞り出すような窮屈な声で「君に助けられる筋合いなんてひっとつも、ないっ!」と言い絶命した。

遺品の免許証には「城島 紀文」とあった。彼は香川照之ではなかった。
身寄りが誰一人いないことも、警察の調べでわかった。
なんとなくこのままさようならをするのは悪い気がしていろいろと嘘をついて遺体を引き取った。
貯金をはたいて小さなお墓を買った。自宅のすぐそばにある墓地に埋葬した。

昨日、久しぶりに彼に会いに行った。
墓前にそっと、三本の新鮮なエリンギを並べ、ぶなしめじをちぎって横に添えた。
私が彼にしてやれることはこれくらいだ。

背後からざっ、ざっ、と砂利を踏みしめる音がした。
振り返るとそこにはホームレスが一人立っていた。
にたあ、と歯のない口で笑った。
やがて強烈なアンモニア臭が鼻腔から入り込みその場で嘔吐してしまった。
その隙にホームレスはきのこたちを鷲掴みにして口へ押し込んだ。
口に含んだものを丸呑みしたあと涙目で「やわらかいから歯がなくても食べれますねん」というようなこと言い、ゆっくり墓地の奥へ消えていった。
少し経って私は吐いてしまった場所に持っていたペットボトルの緑茶をかけ、砂利をまぶして帰った。

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