短編『白い部屋とうんち』
パッと目が覚めると、私は白い部屋の中にいた。
その部屋はおそらく正方形で、8~10畳くらいの広さと思われた。
白すぎて目が慣れない。ちょうど時計仕掛けのオレンジに出てくる具合の白い部屋だ。目がちかちかして頭がぼうっとしてくる。
私はイスに座っている。
目の前には私と同じくらいの年頃の若く美しい女性が座っている。
私と彼女の間には、うんちがあった。
そのうんちは、いかにも「うんち」という感じで、「大便」という雰囲気ではなかった。なんとなくかわいげがあったのである。私はこのニュアンスを「うんち感」と名付けた。語感的にはほぼ「マンチカン」である。
女性はそのうんちと私を交互ににらみつけ、怪訝な表情を浮かべている。
私は、感覚的にこのうんちが自分のうんちであるかもしれないと思っていた。
しかし目が覚めるまでの記憶はないため、本当に私のうんちかどうかはわからない。もしかすると私に記憶がないことをこの女性は知っていて、自分のしたうんちの罪を私になすりつけようとしているのではないか。
白い部屋で、うんちは映えていた。真っ白のキャンバスの上ではどんな色でもその輪郭を鮮明にする。そのうんちの茶色は、健康的な茶色だった。ヘルシーブラウン。そう名付けよう。健康的な食生活から生み出されるうんちだ。
女性が軽く咳ばらいをして私に言った。
「いつ食べてくれるんですか?ずっと待ってるんですけど」
私は、できるだけ動揺を見破られないように平静を装いながら、頭をフル回転させた。
「食べてくれるんですか」という言葉のニュアンスから、このうんちは彼女のものだと考えられる。「いつ」ということは、ずっと待たされているのだ。待たされると人はイラつくものだ。
おそらくはこうだ。
先に私の方から「うんち食べれます!」と宣言し、それなら出しますという流れで彼女はうんちを生成。しかし私がなかなか食べようとしないので彼女からするとうんち出し損状態になっている。なるほどそういうことか。
そうであるならば、私は彼女に言わねばならない。
「あのう、すみません。」
「なんですか。」
「えっと、さっきまでの僕と今の僕はちょっと別の存在っぽいんです」
「はい?」
「あぁ、ですから、私はこのうんちを食べることはできません。そういう趣味はありません。」
私の言葉聞いたあと彼女はゆっくりと顔を下に向けた。
黒の長い髪が顔にさぁっと覆いかぶさる。小刻みに肩を震わせる。
鼻をすする。私はこの時やっと彼女が泣いているとわかった。
やがて嗚咽をはじめ、大きな声を出して泣き始めた。大学生の演劇を見ているような気分だった。天を仰ぎ、口を大きく開け、顔真っ赤にして、「ヴヴヴヴアアアアア!!!」と叫んでいる。
私は身の危険を感じた。この手のヒステリックな女性は感情が昂ったときに何をしでかすかわからない。隠し持っていたナイフで私に襲い掛かってくるかもしれない。感情の矛先は私に向かってくるのは時間の問題だ。
椅子から立ち上がり、出口を探した。この白い壁のどこかに出口の扉があるはずだ。しばらく歩いて私は絶句した。この部屋には壁がないのである。手を伸ばして歩いてもなんの感触もない。
最初の私と彼女とうんちの位置関係から勝手にこの空間のサイズを10畳程度だと思い込んでいただけだった。
とてつもなく大きな部屋の可能性もあったが、1分ほど歩いても壁は見つからなかった。
戻るしかなかった。この状況の秘密を彼女は知っているはずだ。私は来た道を戻った。遠くに見える彼女を目標にして歩いた。
あと10メートルほどというところで急に彼女は泣き止んだ。ピタ、と音が止み静寂がすべてを飲み込んだ。動揺した私は足を止めた。
彼女はポケットからおもむろにナイフを取り出した。やはりだ。私の読みは当たっていた。しかしどうする。逃げたとして、どこまで逃げればいい。戦う?戦ってどうする。相手はこちらを殺そうとしているとすれば、こちらも相手を殺すつもりで対峙しなければ負けてしまう。
次の瞬間、彼女はそのナイフを自らの首元にもっていき頸動脈を思いきり切り裂いた。鮮血が噴き出した。音を聞いた。植木に設置されているスプリンクラーの音に似ていた。4秒ほどして彼女は膝から崩れ落ちてその場に倒れた。
私はさきほどまで自分が座っていた椅子に腰かけた。
人が死んでしまった。私がうんちを食べなかったからだ。もしかすると私は殺人罪に問われるかもしれない。直接手はかけていないが、私があの時うんちを食べていたら彼女は死ななかっただろう。それに、そもそも彼女を欺いたのは私である。その気にさせておいて、裏切ったのだ。しかしここは一体どこなのだろうか。日本なのか海外なのか、どうしてここにやってきたのか。ここに来る直前どこで何をしていたか。何も思い出せない。自分が何者かなのかさえ覚えていない。確かな記憶は、この空間で目を覚ましてからの一部始終である。私は人を殺してしまったのだ。うんちを食べないという行為によって。
私は彼女の転がっているナイフを手に取った。ズボンの上で血を拭った。
ナイフを握りしめたままどのくらいの時間が経っただろうか。私は死ぬことができなかった。自分で自分を終わらせる勇気がなかった。だがそれでいいと思った。この空間の中では生きていても死んでいても差がないだろう。自分で死ななくても、やがて飢え死にするか誰かに殺されるかするだろう。
遠くに人影が見えた。どこからともなくフッと現れた彼はあたりを見回してきょろきょろしている。彼もおそらくは私と似た境遇だろう。動揺して困惑しているに違いない。
私はナイフをポケットにしまい、転がっているうんちを手に取り、彼の元へと向かった。
「うんち、食べれますか?」
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