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大阪のメインストリート・御堂筋は、昔6mくらいの細道だった!?【5/11は御堂筋拡幅の日】

本日、5月11日は、大阪にある道路・御堂筋(みどうすじ)の拡幅工事が完了した日です。1937(昭和12)年のこの日、御堂筋が現在のメインストリート然とした幅になりました。

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本日はこの御堂筋の雑学をご紹介します。

本願寺の別院・北御堂と南御堂が由来

御堂筋といえば、大阪ではもっとも知られた道と言えるでしょう。沿道は街路樹で飾られておしゃれな雰囲気を醸していて、毎年冬になると淀屋橋のあたりでイルミネーションが輝く、超絶リア充道路ですね。

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これほどまでに有名で、大阪を代表する道ですが、この「御堂筋」という名前、じつは正式名称ではないとか。産経新聞の記事によれば、正式には「国道25号と176号の一部」だそう。この「御堂筋」という名前は、あくまで愛称だというわけです。

ただ、愛称といっても古い云われがあります。
この由来は、文字通り「御堂」というお寺と関係しています。本町付近にある「北御堂(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)」と「南御堂(真宗大谷派難波別院)」を結ぶ道であることから、御堂筋と呼ばれるようになりました。北御堂は1597年、南御堂はその2年前と、どちらも16世紀末期にこの地に創建されました。(▼北御堂)

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史料上に「御堂筋」という名前が初めて見られたのは、1615(元和元)年からです。大坂夏の陣において、豊臣方残党の追討などを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」という史料のなかに、落人を捕まえた場所として「大坂御堂筋」と記されているのです。

したがって、御堂筋という名前は400年以上も昔から呼ばれていたというわけです。それほど地元に定着していた古い名前だったのですね。

もともと幅6mしかなかった

いまでこそ道幅40mを超え、まさに大阪のメインストリートとも言うべき風格を醸す御堂筋ですが、じつは冒頭で述べた拡幅工事の前は、なんと幅6mほどしかありませんでした。
6mといえば、片側一車線の道がだいたい7mなので、それより狭いことになります。

え!? 江戸時代の初め頃から名前がつけられていた道なのに、そんなに狭かったの?
これほどまでに狭かったのは、ある地理的な理由があります。
それは、御堂筋はもともと大阪のメインストリートではなかったからです。

江戸時代の大坂の町では、大阪城へと至る東西の道「通り」が主要な動線とされていました。
御堂筋のような南北に走る「筋」は、幹線道路というほど大事でもなかったのです。
それに当時の御堂筋は、長堀川に橋が架かっていなかったため、大坂の中心地である島之内へ出ることができない不便な道でした。どうせ通るなら、堺筋や心斎橋筋を通っていたわけです。

鉄道開通でメインに

人通りが少なかった御堂筋でしたが、近代に入ると状況が一変します。
文明開化の産物である鉄道が開通し、梅田と難波に駅がつくられたことで、大阪の南北を結ぶ道の重要度が増したのです。(▼初代大阪駅)

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1908(明治41)年には現在の四つ橋筋が、この梅田~難波間を結ぶように敷かれました。しかし、これは基本的に大阪市電を通すためにつくられた路面電車用の道で、幅も狭く不便でした。また、下船場や堀江を通るよりも、島之内を経由する道が欲しいところでした。

そこで、1919(大正8)年、第6代大阪市長であった池上四郎が、梅田~難波間を結ぶ御堂筋を新たに拡幅しようという計画を立てたのです。池上氏は、6mほどしかなかった御堂筋を、なんと44mもの幅にしようとしました。(▼池上氏)

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その後、後任の關一大阪市長が、この計画を引き継ぎ、地下鉄御堂筋線建設と合わせて拡幅工事が完了するのです。(▼關氏)

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参考資料:
『大阪今昔歩く地図帖』井口悦男ほか(学研パブリッシング)
『大阪の名所図会を読む』宗政五十緒編(東京堂出版)
御堂筋まちづくりネットワーク

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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