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バッタンバン、ご飯の美味しい小さな街

年末年始をタイに近いバッタンバンで過ごしました。フレンチコロニアル建築が残る、可愛らしい小さな街です。

産院で聞いたバッタンバンの話

バッタンバンの話を初めて聞いたのは、今思うと長男が生まれた日本の産院でした。二人部屋にて、数時間違いで出産したもう一人のママは、出産から最初の5日間を共に過ごした戦友で、初対面ながらそれまでの人生について一生分喋り倒した感じがしました。

そこで、彼女は大学卒業後カンボジア・バッタンバンのNGOで1年間働いたと言っていたのでした。カンボジア?しかも聞いたこともない土地の名前!地雷あるんじゃないの?電気通ってるの?もう私にとっては未知の世界で、ただただ彼女がすごいと思うだけでした。

そして実際に私が初めてバッタンバンに行ったのは、2018年でした。想像していたよりもずっと明るい雰囲気で、フランス風の建物が残り、何よりご飯が素朴ながら美味しかったのが印象に残りました。

当時のブログ記事も残っていました。

プノンペンからは道が悪かったので、また行きたいと思っても道中を考えると躊躇してしまっていたのでした。しかしシェムリアップからは3時間弱で行かれることが判明。今回チャンスが来たと思い、車をチャーターして、途中のサービスエリアではコーヒーとおやつで休憩したりしながら、のんびりと行くことができました。

ノンパウ(肉まん)有名店

エンジニア、バッタンバン女子Cさんが真っ先に教えてくれたのがこの店でした。いつも混み合っていて、ノンパウ(肉まん)がとても美味しいので食べてください!とのことでしたが、年越しイベントで周辺の道路が封鎖され、残念ながらノンパウはありませんでした。

それでも、今できるメニューとして頼んだ焼きそばは絶品でした。とにかく野菜がおいしいのです。全ての野菜がそれぞれ味がしっかりしていました。

冒頭のママ友もよく通っていたそう

ランニングコースの充実

前回来た時より川沿いが整備されて、ランニングコースが充実していました。朝5:30から早朝ウォーキングしました。

やはりカンボジア西部なので夜明けが遅いです。6:30あたりに日が昇りました。ホーチミンと比べると20分くらい遅いよう。私は完全朝型なので、もう少し早く日が昇るといいのになと思います。

プノンペンと同じ独立記念塔。とはいえ、後述するバッタンバンの歴史から、この塔の意味はプノンペンとは違うのだろうなあと思います。
うーん綺麗だ
これを眺めながら6:00に唯一開いていたAmazonコーヒーでカフェラテ飲みました。

ヴィラ式ホテル

バッタンバン、以前もそうでしたがアジア系の観光客が少ないです。ホテルでフランス人団体観光客を見て、「実はこんなに観光客はいたのか」と驚きました。少数のホテルに集まっているようです。

バッタンバンにはいくつかフレンチ・クメール融合のヴィラ式のホテルがあり、今回そのようなところに宿泊しました。

遺跡も近くにあります。アンコール遺跡と微妙に形式が違って面白かったです。

ナッ市場(プサーナッ)は数年前火災に見舞われたものの、再建していました。が、内部はかなり寂しくなり、さらに市場の前にタイ系のCPスーパーマーケットができていて驚きました。

タイとカンボジアで何度も取り合いになったバッタンバン州

ホテルのフロントに置いてあったBattambang Heritage, そして中公新書の物語タイの歴史物語ヴェトナムの歴史を読んでバッタンバンの歴史を内側からと外側から辿っていきました。

この穏やかな可愛らしい街は、ほんの数十年前まで世界情勢に翻弄され、凄まじい歴史があったのでした。(物語タイの歴史をよく読むと、これには戦前の日本も関わっていて複雑な気持ちになります)

バッタンバンの歴史:
-1785 カンボジア領
1785-1907 タイ領(シャム)この時、シェムリアップもタイ領だった
1907-1940 カンボジア領(仏領インドシナ)
1940-1946 タイ領
1946- カンボジア領
(1975-1979 クメールルージュ)

二度目にタイ領になった時には同時にシェムリアップも割譲されるはずが、フランスの意向でシェムリアップとアンコール遺跡は除外され(気持ちは分かる)バッタンバンとシソポンのみが割譲されたそうです。

こちら興味深い都市計画図、公共資料(Battambang Municipality)からの転載だったので写真を載せます。バッタンバンの街の印象となっているフレンチコロニアル建築のほとんどは、1907-1926に建てられたものだったそうです。

そして二度目の割譲後、この地域のタイ化政策があり、街の名前もバッタンバンから「プラタボーン」へ、通りの名前もタイの名前がついたそう。行政制度や教育制度もタイ化され、タイ語教育も行われていたそうで、いわゆる「同化政策」だったようです。

(タイにとってのここでの「失地回復」を祝ったのがバンコクの「戦勝記念塔」でした。バンコクを旅行した時、これは何の戦いの記念なんだろうと思っていましたが、バッタンバンをフランスから取り戻した「記念」で建てられたものだったそうです)

プノンペン時代のカンボジア人の友人と再会した川沿い。
街の中心を流れるサンカー川が癒しです。

そのような複雑な歴史での「タイ化」政策は思わぬところで影響し、バッタンバンがカンボジアに復帰した後のポル・ポトの恐怖政治の時代に、中央の思想がうまく伝わらなかったのか、クメールルージュの影響は他の州に比べると少なかったようです。
悲惨な歴史がありながら、こんなに広範囲なエリアに100年前のフランスの建物がそのまま残っているのは不思議な気がしていました。背景を知り、なるほどと思いました。

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