最近読んだ、東南アジアの芸術・歴史の本(カンボジア王女、サイゴン建築300年、シンガポールの歴史)
引き続き、ダムナック寺院敷地内の図書館にお世話になり、東南アジアに関する大型本を楽しんでいます。5月になり気温も多少下がってきて、汗だくで図書館にへばりつくこともなく快適です。
The First Royal Apsara(舞踏家だった王女)
2019年に亡くなったボパ・デヴィ王女の追悼本です。カンボジアの伝統舞踊を広めてユネスコの無形文化遺産に登録されるのに尽力した方であり、ご本人も人間国宝の称号を付与されました。
子供の頃からボパ・デヴィ王女は王立バレエ団の公演で世界の国々を回り、1964年にはパリ・オペラ座にてシャルル・ド・ゴール大統領の前で公演を行ったそうです。
ポルポト時代、舞踏家が粛清された時代はボパ・デヴィ王女はどうしていたのかと気になっていました。この本によると、王女は1977年から1991年までフランスで過ごしていたようです。
とはいえ、このフランス時代の話は一切公にしていないようで、王室のプライドのようなものを感じました。
1984年に一旦パリを離れてタイ- カンボジア国境の難民キャンプで伝統舞踊を教え始めますが、ここでの生活で体調を崩してしまい、フランスに戻っています。
Saigon 1698-1998 Kiến Trúc / Architectures(サイゴン建築300年)
サイゴン(現ホーチミン市)の300年間の、中国式の建築、フレンチコロニアル建築、そしてフレンチモダニズム建築の集大成です。Kiến Trúcは建築のベトナム読みです。なぜスタートが1698年なのかと気になったので調べてみると、
なるほど、1698年にサイゴンが始まったのですね。昔はカンボジア名でプレイノコール(ក្រុងព្រៃនគរ、森の中の町)、クメール人の集落があったとは聞いたことがありますが、具体的な年は知りませんでした。
掲載されていた建築で気になったもの
1. 211 ドンコイビル (Le 211 Catinat)
フランス語名のLe 211 Catinat は繁華街ドンコイ通りの昔の名前なので、これはベトナム独立以前の建築なのでしょう。在住していた時(6年くらい前まで)はこの建物はまだありましたが、現在別の建物が建っている気がします。
※在住の友人に聞いたところ、既に取り壊され新しい建物が建設され、人民委員会の一部になっているようです。
カティナは最近ホーチミンで流行っているKatinatカフェの元になった名前だと思います。
また、ベトナム戦争の頃を描いた本では(北部読みで)ツゾー通りとなっていますが、実際にはトゥヨー通りと呼ばれていたのかなと想像しました。
2.パスツール研究所
熱病研究・ワクチンで仏領インドシナの公衆衛生に貢献したLouis Pasteur(ルイ・パスツール)の研究所です。仏領インドシナに数カ所ある研究所のなかで、サイゴンが一番最初に建てられたとのことでした。
足を怪我した時に破傷風のワクチンで、お世話になりました。建物と外構デザインが非常に素敵で、「オールベトナム語でハードル高いけど、いい施設だよ(ダメだったら国際病院行きなよ)」と紹介してくれた友人に感謝です。
また、カンボジアパスツール研究所 (Institut Pasteur du Cambodge)は、日本に一時帰国する際のワクチン証明書の作成で訪れました。ベトナムとロゴが同じだ!と思いました。
3. 第二小児病院
国立の小児病院といえばここです。ベトナム人向けの病院なので、実際にお世話になることはありませんでしたが、立地の良い場所にあり、建築見学で訪れたことはあります。格子がかっこいいんです。
日本人街のレタントン通りに並行する、リトゥチョン通りに面しています。
上記の2のパスツール研究所も、当初はこの第二小児病院の中に施設があったそうです。手狭になったので現在の場所に移転したとこのとでした。
カンボジアのパスツール研究所も、国立カルメット病院内にあるので、同じですね。
物語 シンガポールの歴史
シンガポールでは20年ぶりに新首相となり、リー・シェンロンに代わりローレンス・ウォンが就任する、とのことで、気になっていたこの本を読みました。
非常に面白かったです!超絶スピードで経済成長したシンガポール、興味がありました。
私が子供の時(バブル期)には、日本の方が給料が高く発展していたイメージがありました(クラスメイトが夏休みにシンガポールに家族旅行に行くと聞いて、え、なんでシンガポール?と聞いた覚えがあります。すみません…)が、8年前に訪れたときは既に東京の先を行っていました。ベトナム在住時だったのでタイムマシンに乗ったようでした。
スタンフォード・ラッフルズ
(カンボジアにも同名の超高級ホテルがあり、名前はよく聞くけど実は何をした人かわからなかった)
→イギリス人で、14歳で東インド会社職員となる。ほとんど教育を受けていないにも関わらず、マレー語、ジャワ語などの現地の言葉に精通し、後のシンガポール植民地化で現地理解に貢献した。
リー・クアンユー
(シンガポール人や中華系マレーシア人の間ではカリスマ首相。実際には何をした人なのかあまり知らなかった)
→イギリス→日本→イギリスの統治を経験し、日本統治下の華人粛清の対象になりかけたが回避した(1942年)。イギリスからマレーシアが独立し、マレーシア内でマレー人対華人の対立となり、華人中心のシンガポールがマレーシアから追い出される(1965年)。
1965年の建国から1990年までシンカポール首相を務め、「経済発展」を国家目標に設定し、あらゆる制度を構築した。
シンガポールメモ
旧イギリス植民地によるマレーシア結成
1.マラヤ(現在マレーシア)
2.シンガポール
3.サラワク(現在マレーシア)
4.ブルネイ
5.サバ (現在マレーシア)
1,2だけ合併してマレーシアとして独立するとマレー人43%,華人44%の比率になり、華人政党が第1党になるのは(マレーシアの土着民族と思っている)マレー人にとって許せなかった。
3,4,5を含めるとかろうじてマレー人が主導権を握ることができた。そこで1-5を合わせて独立を考えたが、最終段階で石油収入を吸い取られると懸念した4.ブルネイが脱離する。1,2,3,5でマレーシアとして独立。
マレーシア独立後、政府は「マレー人中心のマレーシア」を唱え、シンガポールは「マレーシア人(マレー人、華人、インド人)のマレーシア」を主張。民族対立が衝突(戦争)になってしまう前に、マレーシアがシンガポールを追い出す形で、強制的にシンガポールは独立した。
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