見出し画像

人の心を無理やりこじ開ける国、ベトナム(こんなはずじゃなかったけどまあいいやの海外移住)

こんにちは。もうすぐ外国で3ヶ所目の街に引越しするにあたって(アンコールワットの街のシェムリアップに引越します)「初めての外国生活」を思い出してみました。ほぼ10年前のことです。
*追記あり(2022年10月19日)

初めて在住する国のインパクト

2013年の酷暑期にベトナム生活スタート

恐ろしく暑い2013年の4月にベトナム生活スタート。以前ホーチミンに旅行で来たのは8月で、夏を体験したので熱帯の生活も大丈夫と思っていましたが、勘違いしていました。ホーチミンが1年で1番暑いのは8月ではなく4月なのでした。
体験したことのない刺すような日光の強さとバイクの大波に立ち尽くしていました。

英語も習ったベトナム語も全く通じない、そして配車アプリもなかった時代

外国に関係する仕事をしてみたいと、日本で英語は勉強していました。英検準一級とTOEIC800点は取って、まあまあ頑張ったなと思っていたのです。また、ベトナム移住準備として、大学の市民講座のベトナム語コースを半年取り、それなりに日本で準備はしたつもりでした。

が…、覆されます。そもそも英語は通じず、習ったベトナム語さえ一つも通じませんでした。交通手段は当時は流しのタクシーしかなく、乗ったタクシーでは行き先を何度告げても「はぁ?」と聞き返されるのです。ドンの桁が多すぎて計算が分からなくなってしまい、後から一桁多く払ったことに気づいて、降りてから日本語で叫びそうに(実際叫んだこともあります)…毎日を生きるのに必死でした。

今なら分かります、私があの時、ベトナム人のことを、そしてベトナム語のことが全然分かっていなかったことを。
声調や母音、子音の基礎が全くできていなかったことを…
(そして日本でのベトナム語講座は、発音ばかりやると生徒が離れていくので、発音は最低限にするのも分かります)

職場でも英語通じず

会社の事務室では、私以外は5人全員ベトナム人でした。日本人がいる部署は同じフロアですが離れていました。事務室で1人だけ英語を話す人がいたのですが、かなりきついベトナム訛りで、最初は英語で話していることすら気が付きませんでした…

私の仕事は、ありとあらゆる資料の英日・日英の翻訳でした。(あの程度の英語でよくやったと思うのですが、外国ではよくあるようです。そして英語力の底上げになりました)

ローカルアパートでルールわからず

最初に住んだアパートは、会社が手配してくれたアパートでした。駐在員ではないので、外国人向けの建物ではありません。すべてのことをベトナム語で自力でやらなくてはいけませんでした。英語を話す人も皆無です。絶望でした。シャワーを浴びていたら突然断水したり、台所から変な臭いがしてもどうしたらいいのかわかりません…

加えて、ヤンチャな息子。ベトナムのローカルアパートは、在宅時は風を通すために玄関は開けっぱなしです。防犯用に鉄格子の扉をしている家もありますが、ない家もあります。息子は廊下に出ると、有り余った体力で走り回り、入れる家にはすべて入っていました。私は追いつけません。気がついたら知らない人の家のベッドの上で息子が飛び跳ねていたこともあり、私はどうすればいいのかわからなくて息子を叱り、泣きながら手を引いて帰って行きました。

幼稚園の先生の前で号泣

息子は日系の幼稚園に通っていました。入園して少し経ってから日本人の担任の先生との面談があり、子供のことを一通り話した後、「お母さんはベトナム慣れましたか?」と先生が声をかけてくれたのです。そこで堰を切ったように今までの感情が溢れてしまい、担任の先生の前で号泣してしまいました。
もう恥ずかしいやら何やらで「すみません…」と謝りましたが、先生は「とてもよくわかりますよ。私も同じでしたから。頑張りましたね」と意外なことをおっしゃって、そっとティッシュの箱を差し出してくれました。そして個人的にランチに誘ってくれて、それまで日本人の友人がベトナムで一人もいなかったことに気づいたのでした。

思っていたのと違うけど、なんか楽しい

職場の人がフルーツをくれた

とりあえず会社には何とか毎日行って仕事ができるようになった頃、周りの人が何かくれることが多くなりました。フルーツが多かったです。ティッシュの上にフルーツと唐辛子塩。What's this?と聞くとよくわからない単語をむにゅっと言われるのですが、それをおうむ返しにしていくつか覚えました。bưởi(ポメロ)、chôm chôm(ランブータン)、ổi(グアバ)など。

ベトナムのフルーツはどれも美味しく、 ngon quá(美味しい)という言葉もすぐに覚えました。bưởiとổiの発音は全然できなくてとにかく何度も言わされたので 、カンボジアにもあるこれらのフルーツを見ると今でもベトナム語の方を思い出します。

知らない近所の人が食材を借りに来た

家にいたときに、いつものように鉄格子扉だけして玄関を開けていると、トントンと鉄格子を叩く音がして外に知らない女性が立っていました。上下パジャマです(ベトナムでは上下柄のパジャマみたいなのを普通に着ている)
そして、何か言っています。知らない人だし、来る家を間違えたのないかと、 Tôi không biết(わかりません)を何度も言いました。

でも彼女は引き下がりません。ớtが欲しい、持っていないかと言います。ớt、聞いたことがある…めちゃくちゃ難しい発音なので、家庭教師の先生に何度も直された単語…そう、唐辛子🌶でした!!

これは昭和生まれの私でも話に聞いたことがあるだけの「醤油貸して」ではないか、とちょっと感動しました。彼女は私のことを知っている人でも知らない人でも外国人でも、近所の人だから聞いてみただけだったのです。

知らない子供が家に入ってくるし、息子も他の家で夕食を食べていた

そうしてベトナムのローカル生活に慣れてくると、放課後はみんな同じ階の子が廊下で遊んでいるのに気づき、そこに息子を出してみました。家で私と二人でつまらなくて騒ぎ出したりいたずらばかりするよりずっといいです。廊下では子供たちが車のおもちゃに乗って端から端までレース、おままごとするグループもいたり、お母さん同士がおしゃべりしたり、誰かしらが軽く子供たちのことを見守っています。

ここで、「外国でワンオペ」と思っていた子育てが急に楽になってきました。近所の子も家に入ってくるし、一緒におやつを食べたり、日本のおもちゃに興味を持ってくれたり。ちょっと買い物行ってきますと近所の人に言えば、誰かが子供をみていてくれます。そうこうしているうちに、隣に住んでいたママが英語が堪能なことも知り、生活のことをいろいろ教えてくれました。また隣の女の子Aちゃんが息子と生年月日が一日違いという奇跡に気づき、一緒にお祝いしたりしました。

気が付くと息子も他の家でご飯をご馳走になったり、隣のAちゃん一家に「美味しいフォー屋さんがあるから○○(息子)も一緒に連れて行ってあげる」と夕食に連れて行ってもらうようになりました。

息子がいつの間にか英語とベトナム語を話し始めた

 1年半くらい経って少し生活に慣れてきた頃に、もう少し街の中心部に近いローカルアパートに引っ越しました。ここでは多少外国人もいて、またベトナム人も英語を話し外資系の会社に勤めている人も多く、子供は私立学校や英語学校に通わせるという教育熱心なエリアだったようです。

玄関開けっぱなしで子供は廊下で遊ぶというのは変わらず、廊下はロの字で回遊できたので、息子はひたすらフロアの廊下を走っていました。
「外国人には英語で話しなさい」と言われている子が多かったようで、息子にはみんな英語で話しかけてくれていました。
日系幼稚園の英語の時間以外にほとんど英語のアクティビティはしなかった息子でしたが、いつの間にか片言の英語やベトナム語で周りの子とコミュニケーションをとり始めていて驚きました…

お隣のお兄ちゃんが、祖父母の家に息子を泊めてくれた

特に息子のお気に入りは、お隣の Bくん(当時小学校高学年)とPくん(当時中学生)のお兄ちゃんで、年が離れていたにもかかわらず、ずいぶん遊んでくれました。 Bくんはくもんの日本地図パズルをよく一緒にやって、「東京って小さいね」と言っていたり、 Pくんは日本土産で持って帰ってきたルービックキューブをYoutubeの解説動画と格闘して、8時間かけて6面揃えて息子の憧れの人となりました。

そして、「おじいちゃんの家に泊まりに行くけど、○○(息子)も行かない?」と誘われて、息子はThủ Đứcの家について行きました。今でこそThủ Đức区はおしゃれな2区と合併したので、イメージが違いますが、当時のThủ Đức区は中心部から片道1時間くらいかかる小旅行でした。お迎えで行ってみると、家は昔ながらのベトナムのこじんまりした家ながら、敷地は大学内の一角にあり、元々おじいさんは大学の先生だったとのことでした。とても静かで近くには研究所や林や小川があり、ホーチミンの喧騒からは全く想像できないような落ち着いた環境でThủ Đứcが大好きになりました。

そしてそのお兄ちゃんに会いに、ホーチミンへ行ってきます

Bくんは高校生、Pくんは大学卒業したはずです。この週末に会える予定です。もうベトナム語はかなり忘れてしまったけど、間違いなくホーチミンで私も息子も心が開かれ(というか、無理やりこじ開けられ)鈍感力がつき(笑)考えがシンプルになっていったと思います。

海外生活は想像していたものと180度違い、東南アジアとはいえこんなに泥臭いものだとは思わなかったです。今ではそこそこ外国人の心地よい暮らしを手に入れましたが、望んでもあのカオス(笑)には戻ることができず、寂しいくらいです。

※追記:嬉しく切ない4年ぶりの再会

Bくんは高3、Pくんは大学4年生でした。身長180cmでお兄ちゃんを完全に追い抜き、格好よくなっていたBくん、そして大学に入りイギリスに2年間の留学が決まっていながら丸々パンデミックと重なってしまい、結局行けなかったPくん。Pくんの話しぶりから、どれだけ努力を重ねたかと留学中止の落胆がひしひしと伝わりました。

息子は二人に気軽に「彼女いるの?」と聞き、「Bはいるけど、僕は勉強しすぎて彼女いないんだ」と笑いながらPくんは言っていました。日本からイギリスに留学するのと、ベトナムからイギリスに留学するのは全く違います。Pくんはおそらく大学の給付奨学金に選抜され、ヨーロッパ留学経験者が今のベトナムを牽引している現状を見ると、本当に悔しかったのだろうと思います。

2人のお兄ちゃんは袋に入ったベトナムのお土産をくれました。最近ホーチミンで流行っているという、ダラットのオーガニックフードだなと思ったのですが、よく見るとおもちゃの車が入っていました。あっ!これは!息子が小さいときによく買ってとねだっていたものです。

思春期の息子はおもちゃの車を見て苦笑いでしたが、こんなことまで覚えてくれていたのかと、そしてそれを久しぶりのお土産に入れちゃうセンスに、私はまた心の扉を無理やり開かれたようで、涙が出そうになりました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?