ヒーリングイノベーションという”シン・癒し“をもとめて
【坂口恭平さんに感謝を込めて(私の書いている文章は、毎回坂口恭平さんにヒントをいただいて書き下ろしているものです)】
私は”ヒーラー”を職業としています。世の中にはヒーラーという方たちは星の数ほどいるけれど、これまた悩んでいる方々と星の数ほど関わって、face to faceで話をしてきた経験から"癒やし"というものが何なのか?という命題やその本質に人一倍取り組んできました。
この仕事を始めた当初から『ヒーリングとは?』『癒やしとは?』ということは、終始考え続けてきたけれど、どうやらそれは私の目指していたものとは違っていたみたいです。正確に言えば、それはスタートとゴールがあるとして、マラソンで言えば折り返し地点みたいなものでした。
巷でよく言われる"癒やし"というのは、現在位置を確認することであって、未来に向かっていないんですね。一方"未来に向かう"というのは、今までの偏った世界の見方を壊すことあって、今までの現実を見ているフィルターを違う世界線にずらす、ということなのだろうなと思っています。なので、今回は"癒やし"というものを、現在位置を確認し、未来に向かうという2つの連続性であると考えてみたら面白いんじゃないかなーと思って、筆を走らせました。
じゃあ、これを仮に【シン・癒やし】とか【ヒーリングイノベーション】とでも名前を付けてみたらどうでしょう。*イノベーション(英: innovation)とは、物事の「新機軸」「新結合」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと、です。
私のところには、毎日たくさんの悩んでいる人たちが来ます。ジャンルは人によって千差万別です。でも、色々な人と膝を突き合わせて話を続けてきた結果、ひとつのシンプルな根っこに気がついたんです。
あなたは、どうして悩むんでしょうか?
結論からシンプルに言うと、自分の思考パターンがいつも同じで、それをリピート再生してしまっているからです。悩んでいる人はいつも同じ話をします。『◯◯が辛かった』とか、『苦しかった』とか、『◯◯がどうすればいいかわからない』とか、『◯◯する勇気がない』とか。特徴としては、自分の想像できる範囲でのみの因果関係を考えて、その箱庭でずーっと砂遊びをしている感じです。最後には、砂のお城を作り終えて『こんなの私が作りたかったものじゃない!』と一言、それを破壊していきます。そして、またイチから同じような城を作り始めるのです。
これはなんだか、仏教思想で語られている【賽の河原】という場所に似ているような気がしませんか?死んだ後に地獄に行った子どもは、賽の河原に連れてかれます。一応地獄ですから罰として、その場所を牛耳っている鬼に、そこらへんに転がっている石を積むように、子どもたちは命じられます。子どもは怖くて逆らえませんので、言われたとおりに石を積みますが、最終的には見回りに来た鬼の棍棒で、バーンとその脆弱なタワーは崩されて、また『最初から石を積み直せ』と言われるんですね。
つまり、こういうことです。
鬼というのは、あなたの思考パターンであり、子どもというのは、それに何の疑いもなく素直に従うあなただということです。じつは、全部あなたなんです。
つまり悩んでいる人は、石を積む子供の役と、見回りに来ては無慈悲にその石ころタワーを壊す役を同時に演じているようなものだということ。この場合の構造をシンプルに言葉にしてみます。
①子供は石を積むということ、それからある程度まで石を積み上げれば、この地獄から解放される、というパターンを持っています。それから②鬼は、ある程度『積み上がったな』と思ったら、そのタワーを壊して、また最初から積み上げさせる、というパターンを持っているということです。
相手の悩みを理解するためには、その人の中で『どういうゲームのルールで物語が進行しているのか?』をまず捉えなければならないのです。本質は【石を積み上げる】というルールがある、ということ。それから【石を積み上げたら子供の勝ち】、【積み上げたものを壊せたら鬼の勝ち】だということ。ただそれだけなのです。
子どもたちは『石を積まなきゃ』と思って一生懸命なのですが、ココで囚われているのは『なぜ積むということが縦に一直線なのか?』ということです。だって、考えてもみてください。一つの石の上に、もう一つの石を置こうとするから、不安定であり、すぐに崩れてしまうんじゃないのかなとは思いませんか。むしろどうして、この子どもたちは【石を積み上げる】という行為をそんな風に考えるんだろう?と興味を持ったりするかもしれません。
でもこの場合は、あまり理由なんて気にしても仕方がないので、次にいきましょう。なぜかと言うと、このお話はあくまでも思考実験だからです。本当にそんな子どもたちがいたら、順番にその理由を尋ねてみればいいのですから。それよりも重要なのは、子どもたちが【石を積み上げるというのは、垂直に一個一個積み上げるものだ】という考え方に囚われている点です。
【ある程度の高さまで積み上げる】ということを、もっとシンプルに考えてみます。そうすると【ある基準点から別の基準点へ、石を使ってタッチする】ということなのかなーとか思ったりしました。でも、きっと非常に分かりにくいと思うので、もう少し詳しく言葉でビジュアル化してみます。
身長を測るときによく使われているメモリ(定規?)のようなものが、ある空間に垂直に置いてあると想像してみましょう。それから『ここまで到達したら地獄から解放されますよ』という基準点に、赤で印がつけてあると思ってください。そうすると、私たちが本来やりたいことは【石という物体を使って、その高さにタッチする】という単純なものに早変わりします。
子どもたちは【一個一個、縦に積み上げる】ということをしているのでうまくいっていないワケですよね。だったら、いっそ【横に並べてみる】というのはどうでしょうか?
例えば、一片の長さが数メートルの正方形の模様を地面に描き、その決まったエリアに、収まるように石を投げ込んでいくのです。なんだか、運動会の玉入れに似ていますね。【積み上がった石が、ある程度の高さになるまでは壊しに来ない】というプログラムで、鬼が動いているのであれば、そのギリギリまでは四角のエリア内で、石垣を造るように積み上げていけば良さそうじゃないですか。なんなら、そこにいる子どもたち全員で協力して、その四角の中に全方位から同時に石を積み上げたっていいですし。
古代エジプトの奴隷や、古代日本の奴隷はこんな世界を生きていたのでしょうか。そんな風に土台を作って積み上げられてしまったら、鬼はどこから崩していいのか分からず、右往左往するはずですよね。なにしろこの鬼は、今まで経験したことのない状況にとても混乱しているからです。鬼たちは【一直線に天に向かって積まれた石しか、崩し方を知らない】のですから。
これは考え方の一例として出してみたのですが、こういうことは、あらゆるあなたの悩みのメカニズムの根底にもありそうです。ただ、悩みという物語のフレームを知ってみて、そのレールから外れることを創造力を働かせられるようになったら、たとえ救いようのない悲惨な地獄にいても、お釈迦様が天から一筋の蜘蛛の糸を垂らしてくれるはずなんですよ。
もちろん、すべてのズレが、うまくいくかはわからないです。だけど、うまくいかない今の現在位置を整理して、そこからほんのちょっとズレてみることなら、今からでもできるとは思いませんか。
『石を一つ一つ垂直に積む』という課題で、あなたは悩んでいるんでしたよね。でも、さっきいったような【クリエイティブなズレ】は、ただの一例に過ぎません。他にもレールを外れようとすることはできそうです。あなたは、石を【河原】で積んでいるんですが、川に石を投げ込んでみたらどうなるだろうか?これは、環境を変えてみるという視点です。河原という環境設定にいつの間にか乗っかっていたんですが、そこから外れてみると、また違った視点ができそうな気がします。もしかしたら、鬼は水が大の嫌いで『川の中には入ってこれないじゃん!』という、新しい特徴に気がつくかもしれないじゃないですか。
もしくは『上に積むのではなく、下に積んでみたら、鬼たちはいったいどんな顔をするだろう?』という風に、常識を無理やりひっくり返してみることも、ヒーリングイノベーションには繋がりそうです。
これは何かを【積む】という行為が、【下から上へというベクトルで行われる】という強烈な思い込みにあります。
だから、その世界の切り口からちょっとでもズレてみたら、『あれ?上から下へ積んでもいいんじゃないか?』というシン・癒やしが生まれる。
賽の河原では、『地表からこれくらいの高さまで積み上げなければいけませんよ!』なんて一言も言われていませんよね。じゃあそこに、鬼たちも知らないような【自分の背の高さを超えるぶん、石を積み上げることができたら、天国にいける】という隠れたルールがあったらどうでしょうか?
だって、自分よりも2倍も3倍も高く、石を一直線に積み上げるってことは激ムズじゃないですか。それだったら、鬼はわざわざ壊しに来なくてもいいわけですよ。それがゴールだったとしたら、鬼は最初から必死こいて石ころタワーを崩しに来なくてもいいですよね。勝手に崩れるのを待っていればいいのですから。『いつもこの高さになると、なんで壊しに来るのか?』ってことを考えると、問題解決における隠れたルールに気づくこともできるんです。
そしたら、これはできるかどうかは別としてですよ。いっそのこと【自分の身長よりも深くて、細長い穴を掘って、その中に石を転がしてみる】といったイノベーションも起こせそうですよね。クリアルールを知らなかったとしても【石を下から上に積む】という繰り返しの地獄からは、少なくとも私たちは逸脱することができます。
そうすれば、地面の中で自動的に、石が上から下に積み上がるはずです。書いていて、面白いなと思ってしまいました。子どもたちは石一個分しか入らない穴を使って、安全に石を積み上げることができます。鬼たちの金棒は、その穴に入りきらないので、地中に積み上がった石のタワーを崩すことなんて、不可能だからです。
ときにはこうやって、出来るかどうかは別として、という枠組みで世界を眺めてみる時間も、私たちにとってはとても大切なことだと伝わるといいな。
私は、このような単純な問題解決に関しても、私たちにとって大切な本質は一つだけだと考えています。まず『自分の中でどういったシステムが稼働しているのか?』を知ることが最も重要なのです。
たとえば、恋愛で悩んでいる人は、特にそのレールから外れにくい傾向があるようです。多くの人たちは『恋愛や結婚には決まった形式がある』と信じて疑わないのです。そういう人たちは、恋愛や結婚を自分に当てはめようとするのではなく、自分を結婚や恋愛に当てはめているからうまくいかないのだ、ということに気がついていないのかもしれません。
よくヨドバシカメラや、ロフトのホビーコーナーで特集が組んである【知恵の輪】を解くのが難しいのは、『こうすれば解けるだろう』という先入観に、私たちの多くが縛られてしまっているからです。つまり『多くの人たちが考えそうな道筋や結末には答えがない』という事実の重要性を、心の底から理解していないんだと思ってください。
私たちは、生まれてからこのかた、なにか見えないフレームの中で生きていいます。
誰ひとりとして例外はありません。
何かのフレームの中にいれば、自分を変えなくてもいいし、安心安全でいられるからです。生物学的には、これは脳なのかも知れませんが、私たちは省エネなのです。できるだけ、だらしくなくいたいのです。でもこれは、私たちが悩んだり、苦しんだり、変化を求めているときには邪魔をしてくる鬼になります。
恋愛や結婚で悩んでいる人は、多くの人が望んだり、予想できるようなストーリーや物語で、自分の恋愛が始まったり、終わったりするものだと思っていることがほとんどです。でも、人と人が出会ったり、人と人がお互いのことを気になったり、好きになったりすることに、決まった筋書きなんてあるんでしょうか?もしも、ある程度の筋書きが必要だとしても、その物語が一字一句同じ内容で書かれているワケがないじゃないですか。
量産化された100円ショップの食器のように、人生は誰かの物語の複製になるわけではないですよ。学生のときはモテていた人も、急に社会人になって、モテなくなったり、出会いがなくなったりすることだってあります。でもそれは、あなたが【人間としての魅力がないからモテなくなった】のではないかもしれません。学生のときにモテていたというフレームを、社会人になってからも使おうとしたときに、恋愛がうまくいかないという歪みが始まってしまうだけなのだとしたら、どうでしょうか。ボクシングルールの大会に柔道着を来て行ったとしても、きっと望ましい結末はやってきませんよね。
私たちは面白いもので【こうしたらこうなる】というフレームを使うことで、物事を効率化したり、人生の時間稼ぎをしています。同時に【こうしたらこうなる】というフレームを使うことで悩んだり、苦しんでしまっているのです。
恋愛で悩んでいますというお悩みを例に取ったとしても、『その人の現実の切り取り方がいったいどのようなものなのか?』によって、癒やしのイノベーション戦略は変わってきます。さっきの例で言えば、学生のときはモテていた枠組みから、自分を少しづつズラしていけば『少なくとも自分にとって必要な変化がどういうものなのか?』が分かってくるのです。
今まで異性と付き合ったことがない人と、異性とは付き合ったことがあるけれど、長く続かない人と、異性とは長く付き合ったことがあるけれど、どうしても結婚まですることができない人では、各々の段階やシステム、それから経験値が違うことは分かると思います。
逆に言えば、これらはほぼ全部【恋愛の常識(現実の切り取り方や思い込み)】という幻想に囚われた苦しみが引き起こしています。だから、『各々が自身の恋愛をどう捉えているか?』というシステムをまず、自分が知って、それを少しつづ破壊していく、ということが、本当の意味で自分と向き合うこと、だと私は思います。
今まで異性と付き合ったことがない人でも、付き合いが長く続かない人でも、長く付き合ったことはあるけれど、中々結婚できない人でも、私がこの知恵の輪を解くときは、まず、その人の話をただ聞くことから始まるんですね。それは、決してつらいことに共感するためだけに行われるものではないのだと、覚えておいてほしいです。共感すると言うことは、その人の思考フレームに寄り添う、ということだけなので、その人の悩みを解消することにはつながらないんですよ。
共感する、ということは、言ってみればトップアスリートが本番で100mを全力疾走するための、ウォーミングアップみたいなものだと考えてください。もちろん、ここから全てが始まるのですが、これが全てではないのです。一緒にウォーミングアップをしながら、アスリートのルーティーンを眺めたり、走る前、走る直前、走っている最中、ゴールする直前、ゴールした後などのセクションに分けるとか、そのセクションごとにどんなことを考えているのか、もしくは実行しているのか、をつぶさに観察することが必要になってきます。共感と、観察が同じようにできるようになったら、立派な歩くパワースポットになれます。
そういう意味で、悩みを抱えている人は、トップアスリートのスーパースターだと私は常に思うことにしています。つまり、悩みを抱えている人は、その道でうまくいかないことのプロなんです。
私は決して、だれかを馬鹿にした発言をしているわけではありません。何を隠そう、私も【いつもなにかうまくいかないプロ】を私の中に抱えているからです。いつもうまくいかない、ということは、それほどまでに【その人の失敗の成功率がトップアスリート並みに高い】ということです。そこに私の関心や観察眼は惹きつけられるように、集中するようになっているだけです。
大事なことなので、もう一度言います。
悩みを抱えている人は『悩みから脱出できない』という成功を繰り返すプロフェッショナルなので、私はその堅牢なシステムにちょっとしたエラーを起こしてやるというお仕事をしています。たくさんの人たちが、困ったことや、トラブルを引き起こすことを繰り返しているのであれば、その人たちは、困ったことを抱えたり、トラブルを引き起こすことを何度も再現する、再現性のあるプログラムが内部に存在すると考えたほうが、ちょっとホッとする気がしませんか。向き合うってことを、気合い入れないで欲しいんですよ。気合を入れてうまく言ったことなんて、私は人生数えるくらいしかありませんしね(笑)
そう、失敗というのは、失敗を成功しているだけなんです。
失敗を繰り返す、というのは、失敗を繰り返すということを成功しているだけなんです。
なので、失敗を繰り返す、という成功を、逆に間違った方向へと導いてあげるだけで、その人は失敗ばかりのレールから外れて、目的地へのレールを悠々自適に進んでいくことができるんですね。つまり、ヒーリングイノベーションというのは、今のあなたのシステムにエラーを起こさせる毒薬という解釈もできそうです。
なにが成功で、なにが失敗なのか?を考えると、とたんに答えが出なくなっててしまったり、そこから遠ざかったりするのは、あなたの世界を見つめるための頑固なフィルターのせいです。成功がいいことで、失敗がわるいこと、という風に考える癖のある人は、もうそこで悪魔の知恵の輪開発者の思惑にハマっている気がします。
あなたには現実化の能力しかないのですから。
あなたがやってきたことが、全て目の前の現実を現実化しています。もしも、あなたがまだ死んでいないのであれば、あなたが無から有を創り出した証拠が目の前に広がっているだけです。しかも、あなたの中にあるシステムがほぼ自動的に創り出した現実だとしたらどうでしょう。もしもつらいことが起こっても、それを繰り返そうとしないあなたがいるのであれば、あなたは知恵の輪の輪廻から外れかけているのかもしれません。ただもし、同じことの繰り返しでつらさを抱えているのであれば、あなたは目の前に置かれた知恵の輪を、全く同じ思考、手順で無理矢理に解こうとしているに過ぎません。
現実で、同じ失敗を繰り返しているということは、とてつもない現実化能力なのですよ。寸分たがわぬ、精密なクウォリティーで失敗を実現している、ということなのですから。それは【失敗を作り出すプロフェッショナル】といってもいいはずです。だから、そこから抜け出したいなら、勇気を持って、間違いやエラーという禁断の果実を口にしなければ。
なにかひどいトラウマがあって、そこから抜け出そうとしている事自体が、もしかしたら自分の視野を余計に狭めているのかもしれません。そのリスクが大きければ大きいほど、また繰り返したくないと思うからです。実際、ヒーラーである私なんかよりも、あなたの方がトラウマを取り除こうとして長年頑張ってきたのですから、私が同じような知恵の輪の解き方をしたところで、プロであるあなたの実力の足元にも及ばないんじゃないのかな、というのが私の信条です。
例えば、あなたが大事な恋人とうまくいっていないとしましょう。ちょっと発想を逆転させて、あなた自身を【恋人とうまくいっていないプロフェッショナル】だと考えてみるのはどうでしょうか?まず、気になってくるのは、【うまくいっていない】という抽象的なものの言い方です。解体してみるか、すこし近寄ってみて、それがどんなうまくいっていないの塊でできているのか、観察してみることが大事になってきます。
たとえ、天地がひっくり返ったとしても、『引っ越しのできる引っ越し屋さんです』なんて抽象的なCMしたり、広告を打っているようでは、引っ越し屋さんを営むプロとしては失格です。そんな引っ越し屋さんに、お客さんは惹かれません(笑)いっそのこと、本気でうまくいかないプロになりきってみるのです。
自分のことを【恋人とうまくいってないプロフェッショナル】だと考えるのであれば、うまくいかせないためのコンセプト設計は自分の頭の中でしているはずだし、【恋人とうまくいかないための100のコツ!】みたいなノウハウは、すでに実践しているはずなのです。そりゃもう、無意識に。だって、プロなのですから。
書いていて、本当におもしろくなってきました。
世の中はこんなにも、悩むことのプロで溢れかえっているのだから、いっそのこと、悩んでしまうことや困ったことを実現化してしまうプロを数人集めて、共同で本を書いてもらえたなら、本物の地に足ついたベストセラー本ができあがるかも知れません。読んでも現実が変わらないハウツー本よりも、そのほうが世の中の困った人たちを幸せにできるんじゃないか?と本気で思ってしまうくらいです。
話はもどって。
『恋人とうまくいかない』という抽象的な物言いには、人によってたくさんの可能性が秘められていることだと思います。
◯LINEの返事が返ってこない(現代の深い病)
◯話が合わない
◯コミュニケーションがうまくいかない
◯物事を決めるときの価値観が違う
◯言いたいことが言えない、話したいことが話せない
世の中は、だいたいこれくらいの恋愛うまくいかないプロに分かれる気がします。では、せっかくですから、その中の一つ『LINEの返事が返ってこない』を例に、ヒーリングイノベーションを起こしてみましょう。LINEの返事が返ってこないプロは、いったいどういう思考フレームで物事を考えているのでしょうか?短時間で、ざっと7つ考えてみました。
①LINEが返ってくることが当然だと思っている
②自分の送っているLINEが面白いと思っている
③LINEを送り過ぎだと思っていない
④普段相手に直接自分の思ってることや感じていることを伝えることができていないのでLINEに頼ってしまいがち
⑤相手がLINEという連絡手段が好きではない
⑥LINEというコミュニケーション手段の目的の食い違いがお互いにある
⑦そもそも恋人に好かれていない
こんな風に『LINEの返事が返ってこない』という悩みを例に取ってみても、さまざまな要因があることに気づきます。恋人とうまくいかない現実、というのは言葉としてはすべて同じものだけれども、それを自分の物語にしたときに、現実は歪んで、各々のファンタジーになっていきます。だから、相手の話をフィルターなしに聞く、ということはこれほどまでに大事なことなのです。
今日は、その中でもひとつだけにしてみましょう。(7つ考えるのが大変だったんです。それほどまでに私の想像力なんてものは、他の人とくらべてなんてことなかったりします)
①LINEが返ってくることが当然だと思っているプロは、LINEだけではなく人生のあらゆる点で、この戦略を取っているはずとも考えられます。それも『関係性が近くなればなるほど、この傾向が強くなるんじゃないか』という予想がつく。つまり、人生の大半を『人に何か自分のしたいことをしたら、思った通りのことが返ってくる』という信念で、物語が形成されている可能性が高いです。少し抽象的に捉えると、自分がいいと思うこと、快適だと思うことをしたら『相手もそう思ってくれるだろう』というシステムで動いているということですね。例えば、人に席を譲ったら、いいことがあると信じて生きている、とか、なにかアドバイスをしたら、喜ばれたり感謝されたりする、とかいったようなものです。
賽の河原の子どもたちを思い出してみましょう。子どもたちは石を積むことは、『下から上に順序よく、一つ一つ重ねていくことだ』というシステムで動いていましたね。それと同じように、ひとつひとつのダメダメプロフェッショナリズムにも、個性的な枠組みがあることが分かると、面白いです。
『自分がしたいことをしたら、思った通りのことが返ってくる』。この枠組からちょっと外れてみましょう。
◯自分がしたいと思うことをする→自分が普通だと思うことをする、したくないなーと思うことをする
◯思った通りのことが返ってくる→何も返ってこない、思った通りとは逆のことが返ってくる
一つは前者のように、行動ベースでズラしてみることで、なにか現実が変わる可能性がありますね。自分がしたいと思うことをするとうまくいかないのであれば、『したくないなー』と思うことをしてみるということですね。それが『ちょっと難しいな〜』と思ってしまうようであれば、普通だと思うことをしてみるとかでもOKです。例えば『彼氏なんだから、これくらいの頻度でLINEを返してくれて当然でしょ?』と思ってしまうのであれば、知り合い程度の頻度にしてみる、といったようなことですね。要するにLINEをするときだけは、相手を恋人だと思わないプレイをしてみるとかです。
もう一つは、後者のように、何も返ってこないとか、思った通りとは逆の結果が起こったときに、セーフティーネットを張っておくことです。思ったとおりLINEが返ってこないのであれば、そのたびに、自分の好きなことや、自分を高めることをする、と予め決めておくとかですね。たとえば、ハーブティーを入れて自分を落ち着かせるとか、料理好きであれば料理を作ることに没頭するなどです。実は、恋人ができると自分のやりたいことを我慢したり、そういう自分を忘れてしまっていて、それが気づかないうちにストレスになっている場合もあるんですね。そうすることで、写真や動画を撮ったりしてストックしておけば、やりとりのネタにもなるし、料理上手だということを遠回しにアピールすることだってできます。そして、それはその恋人と別れてからも一生の財産になります。
それから、LINEをしたら、返ってくるのが当然だということに関して言えば、【人と繋がっていたい】という欲望も反映されている可能性が高そうです。人と繋がっていたい、という欲求は、誰にでもあることなので、恥ずかしがる必要はありません。そうでなければ、私もこんなところで、文章を書いたりはしないはずです。
人は一人では生きていけない。
頭では分かっていても、当然のこととして受け入れられないことって、たくさんありますよね。でも、それはこの分断された社会の中で、ものすごく脆弱な基盤の上に、私たちが立たされているという強烈な恐怖に揺り動かされているせいかもしれないです。なにか投げかけをしたら、反応が返ってくるということに関して安心を感じているのであれば、もしかしたらその恋人という対象に、投げかけのエネルギーの総数が集中しすぎてしまうだけなのかもしれません。つまり、自分では普通のつもりでも、恋人ができると普段のコミュニケーショントラフィックの均質さが、過集中を起こしてしまい、交通渋滞トラブルを起こしている可能性もありそうです。
このように、自分にとって特定の大事な人ができると、走っている車の台数は変わらないのに、交通渋滞が起きてしまう道路や交差点などができてしまうのは、私たちにとって自然なことなのかも知れませんね。そういう意味で言えば、この問題は『コミュニケーションという交通渋滞を緩和するには、どうすれいいのか?』という問題とも言いかえることができそうです。
一見関係のない物事が、少し違った視点から眺めることによって、重なって見えるようになることは、地球上で人間だけに与えられた才能と言ってもいいと思います。複数の物事を、複雑に見ることも出来るし、ある一つの形や動きに注目して、情報を削ぎ落としシンプルに考えることもできます。これが、抽象的に物事を考える、ということの始まりです。ただ、この話はまた長くなりそうなので、また今度にしようと思います。
このように、失敗を繰り返し成功させるプロは、必ず何かしらのレールに沿って、自らを無意識に動かしています。そこには全く無意識なものもあれば、生まれてから大人になるまでのあなたを、死なないようにサポートしてくれた親や家族や学校社会のなどのプログラムが複雑に絡み合って、あなたを構成しているのです。そうやって考えてみると、あなたを個々にあなたとしてみるのではなく、周りの環境を含めたすべてをあなたと考えて、お話を聞かせていただいているのかもしれません。
でも何にせよ、次に言うことだけは忘れないでほしいですね。
私たちは最初、目の前にある知恵の輪の解き方が分からないかもしれません。だけど、知恵の輪は最初っから、解き方を知っているはずなんです。だって、最初から絡み合ってたわけではないんですから。
ですから、だれかの悩みを聞くときは、自分の頭の中で解決策を考えても仕方がないんです。相手の悩みを解く鍵は、すべて相手の頭の中にあるのです。だって、相手は悩みのプロなのですから。【どうすれば悩めるのか】、【困ったことになるのか】を意識しなくてもやってのけてしまうので、私たちはまず、アドバイスなんかゴミ箱に捨てて、相手のダメダメプロフェッショナリズムの枠組みを捉えることから始めてみませんか。その枠組みを知らないまま、アドバイスをしたところで、複雑に絡み合ったレールからその人を脱線させることは難しいですよ。
私たちヒーラーがやらなければならないのは、相手の人生における通常運行パターンを教えてあげて、そこから逸脱してもらうことだけなんですね。
だから、できるだけ何もしないことこそ重要なのです。何も足さない、何も引かない、を信条に生きていってください。人の心と寄り添う人は。
世の中には『良かれと思ってしたことが、大惨事を起こす可能性のほうが高い』と言ったら意外ですか?何が起こるかわからない物事こそ、新しく何かを足そうとすると、更に何が起こるか雪だるま式にわからなくなるものなんです。ひとつひとつは自分の持病にとって効果のある薬があったとして、それは研究で分かっていたとしても、『2つ同時に飲むとどうなるか?』なんて誰にもわからないんです。そういうものが現実では2つ以上複雑に絡み合っていて、その微妙なバランスの上で、私たちの現実は成り立っています。
私たちがいつも考えるべきなのは『何が正しいか?』ではなく、『何が間違っているか?』だと考えています。
何が間違っているか?を理解し、意識できていれば、それを取り除いて、今より現状が悪くなることっていうのは、ほとんどないんです。リスクはかなり低い。私たちは【何が間違っているか?が分からない】ので、うまくいかない生き物なのです。あぁ、悲しいけれど、そうなのです。
私は、私たちの物語の構造をまず知ってみることが大事だといいましたね。それから、その物語を一旦、シンプルに考えてみます。例えば、『恋人と付き合う前と、付き合った後では、コミュニケーションの構造にどう変化があったのか?』とかですね。それを、この文章の中では交通渋滞に喩えてみることができました。
複雑に絡まった物語を、シンプルにしてみると、そこにはたくさんの余白が存在することがわかります。あなたの世界にも、まだレールが敷かれていない箇所が、もっともっと無数にあるはずです。そこに、ヒーリングイノベーションがあり、物語の新しい創造があり、共感とは別次元の深い深い癒やしが広がっています。今までのあなたは、自分の物語に縛られていただけなのです。だけど、それはただの幻想で、いつでも、いや、今からだってすぐ、その物語から脱線することはできます。
今日の朝、散歩していて気がついたのだけれど、【自分軸】っていうのは、【あなたの中に宿る物語のこと】だと気が付きました。
ひとは、自分の物語の中で生きている。
それはひとりひとり決して同じものではないですよね。ただし、各々の物語が一瞬重なる部分もあります。もしかしたら、コミュニケーションというのは、本来その一瞬を慈しむ営みなのかも知れないです。LINEなどでいつでも繋がっている、なんて思えるってことは、それがなければ分断されている、と考えているのと同じことではないでしょうか。どこまで願っても、幻想でしかないということです。幻想を創り出そうとすると、その反対も同時に生まれてしまうからです。
私たちは最初から自分の物語をもって生まれて、死ぬまで自分の物語を紡いでいく。
そんな風に思えば、人と人が分かり合えるなんてことは、ドラゴンボールに時々出てくる、Dr.スランプアラレちゃんみたいなものかもしれません。私たちは偶然と必然の間で、物語を交換しあっているのではなく、気まぐれとまぐれの間に漂っているクラゲなのかもしれないですね。
では、機会があったらまたお会いしましょう。
もりやまたかひろ
私はいま全国でヒーリングの旅をしようと、画策しています。もしも、サポートいただけたら、それは旅の資金にしようとしていますので、私の作品に少しでも感銘を受けてくださいましたら、ぜひ、サポートよろしくお願いします。旅のレポートが書けるのを楽しみにしています。今からワクワクです☆☆☆