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自己肯定感というバズワード化してしまった言葉に想うこと

自己肯定感という言葉の違和感の端っこをようやく捕まえられた気がするので、この感覚が薄れる前に記しておこうと思う。

既にバズワード化されてしまっているように思える自己肯定感という言葉は、

シチュエーションによってその使われ方も定義も異なっているように思う。

世間で一般的に自己肯定感と呼んでいるものは、
私は自己肯定力なのではないかと思う。

言葉遊びには違いないが
「感じる」ことと「能力」であることは別物だろう。

自己肯定力がとても低くても
自己肯定感がとても高い(満足である)という状態
はありえるし、

自己肯定力がとても高いが
自己肯定感が低い(自分は全然ダメ)と感じる人
もいるだろう。

ほんの少しの水でも満杯になる小さなコップと、
大量に水を注いでも満杯にならないダムみたいなものだ。

わかりにくいか。

つまりは、
二つの指標(水注ぎ力と器)があるにも関わらず
一つの「自己肯定感」が高いか低いかだけで語られるような状態に違和感があったのだ。

鍛えるべきは自己肯定力(水注ぎ力)で、
高めるべきは自己肯定感(器の適切な大きさ)という具合だろうか。

言葉の使われ方の違和感

しかし、これでもまだ違和感が拭えない。

違和感というのは「いわゆる自己肯定感が低い」と自認している人話す時に、

どうも同じテーマで話せていない気がするのだ。

ここでいう自己肯定感とは、
「どんな自分であれ、ありのままの自分や自分の選択を肯定してあげられる状態」
のことを定義している。

前述した区分で分けるのならば、

■自己肯定力
  ⇒「どんな自分であれ、ありのままの自分や自分の選択を肯定してあげられる力」

■自己肯定感
 ⇒「どんな状態であれ、ありのままの自分で問題ないと思える感度」

ということになる。

先に説明しておくと、
私は自己肯定感が高いと言われる側だ。

ただし、当人にその自覚はない。

自己肯定感が高いと言われる人たちは
そもそも自己肯定感という題材で自分のことを評価することが少ないのではないかと思う。

私が他人から自己肯定感について聞かれてはじめて、
自分がどうしているかを考えてみると、

「まぁ、そうできないのも自分だしな」と
言い聞かせるくらいしかしていない。

例えばこのnoteもたくさん書こうと思って始めたが2記事で頓挫し、
これを書くのが数ヶ月後になっている。

そして次も書けるかはわからない。

それについて駄目だと評価することもないし、もちろん褒めることもない。

ただ、別にそれでいいと思っている状態だ。

そうやって「できない自分」を認めてあげることができるのが
『自己肯定感が高い』ということなのだろう。

否。

他の代替語を知らないので「認める」という言葉を使っているが、

「認める」という積極的な心の移動すらないのだ。

これを自己肯定力を主語にして言い換えるなら、

「まぁ、そうできないのも自分だしな」と
言い聞かせる力が強いということだ。

そして「それでいいんだ」と
受け入れる感度(自己肯定感)を

バランスよく持ち合わせているというイメージになる。

話がそれたかもしれない。

違和感の正体

そんな私が自己肯定感が低い人と話をしていると
「それって自己肯定感なのかな?」と思うところがポツポツと出てくる。

結論から言ってしまえば
他者・社会からの評価」というものが登場するのだ。

こんなことが出来ない自分は駄目なんだ(社会に認められない)

といった具合だ。

自分のことを肯定する力は社会基盤に照らし合わせなくても
自己完結可能なはずの力なのに、
自己肯定感(力)が低い人は、その肯定判定が他者・社会に委ねられてしまうのだ。

言ってみれば自己否定力が強い

しかも、
この自己否定力は内存するものではなく、
外部の目(他者・社会からの評価)を勝手に想像して生まれているようだ。

私はそれを妄想と呼んでいる。

例えばこのような感じだ。

『普通の母親ならば、子育てをしながら働きにも出ている。子育てだけでも一杯一杯な自分はなんて駄目なんだ』

これと同じ状況で自己肯定感(力)が高い人は

『働きに出るなんてとんでもない。自分ができる子育てはこれが精いっぱいだから仕方ない。やれる範囲で頑張る』

という風になるのだと思う。

あくまでも一例だけれど、他人は一切出てこない。

自己肯定感(力)が低い人でも
ではこう考えることもできるみたいだけれど、
ではそう思えないことが多いという。

これが、自己肯定感・自己肯定受容力のあるなし(高い・低い)の差なのだと思う。

「自己肯定感」の話をしているのに「他者」が出てくるところが
違和感の正体だったのだ。

自己肯定感という言葉に含まれている(と私が思ってる)もの

書いたことをまとめてみると、

いわゆる自己肯定感には3つの指標があって、

1. 自己肯定力
2. 自己肯定受容力
3. 他者からの評価(の受容度)

これらのバランスが取れているか?
大切なのだというのが私の主張なのだと書きながら理解した。

バランスが大事としたのは、

他者からの評価をまったく気にせず
「自分がよければいいや」という人間が私は嫌いだからだ。

自己肯定力はそこまで高くなくていいし、
他者からの評価もそこそこ気にするくらいがいい。

そして何よりも自己肯定受容力(「まぁいいか」の精神?)を強めるのが良さそうだ。

自己肯定力:3
自己肯定受容力:5
他者からの評価:2

これくらいのバランスだろうか。

たぶん、自己肯定感が低いという人は、
自己肯定力が低いのではなく、
他者からの評価軸が強過ぎて、
例え自己肯定力が強くても負けてしまうのだろう。

自己肯定力:3
自己肯定受容力:1
他者からの評価:6

こんな感じだ。

これは誰に言っても反感を買うので書くのを躊躇うが、

他人からの評価軸が強い人は、
同じ分だけ他者を評価して何かを強いているのだと感じることが多い。

例えば
「誰も定時で帰っていないのに自分だけが定時で帰るのは無理」
というシーン。

もちろん自分の仕事は終わっているし、
手伝える状況にないことが前提だ。

こういったシーンでは
「自分だけ先に帰るのは申し訳ないな」くらいの気持ちが沸く人は
多いとは思う。

そこで目線を逆にしてみて欲しい。

今度は
「自分はもうちょっと残業しなければならないし、誰も帰ってないけど、定時で帰る人を見た」
というシーンだ。

どれくらいの感情が沸くだろうか?

1. 特に何も感じない。お疲れ様。
2. いいなぁ。私も早く仕事片付けて帰ろっと。
3. 誰も帰ってないのに、あいつだけ定時に帰りやがって!

極端な3パターンに分けてみた。

もちろんその日の気分や「誰が」帰ったのかによっても変わることがあるとは思うけれど、

自己肯定感が低いと称する人はこのバランスも取れていないことが多い。

この論調からすると、

『自己肯定感が低いと称する人は【3】と感じるから、自分が帰る立場になった時にそれを想像して怖くなる』
という流れになると予想して呼んでいる人が多いと思うけれど、

私の周りの人はそうではない。

自分が帰る時だけ【3】を想像し、
他人が帰る時は【1】か【2】だという人が多いのだ。

自分はそうだと感じないのに、
他人の思考を勝手に妄想して自己を評価させている。

他人を「投影」して自己評価しているのだ。

そしてこの自己評価監視官はバイアスがかかっているので非常に自己に厳しい

言ってみれば「他人に甘く、自分に厳しい」のだ。

逆に言えば、自己肯定感が高いと称される人は「自分に程よく甘い」ということなのかもしれない。

神よ許しを与えたまえ

こう考えると色々と合点がいくことがある。

こうやっていつも自分に厳しい人は、
「誰かに認めてもらいたい」と言うよりも、
自分を許してあげたい」のだとわかる。

「誰かに認めてもらいたい」と思ってるのは「自分を許したい・認めたい」ことに対する裏返しなのだ。

誰よりも厳しいのは他人ではなく、
自分自身だと気がつくことが大事かもしれない。

そして自分を許す材料として

・誰かに褒められた
・表彰された
・努力して結果が出た

といったようなことを欲している。

そういった証明書・免罪符がないと自己を許せないのだ。

これが、(いわゆる)自己肯定感が高い人と低い人の決定的な差なのだと腑に落ちた。

自己肯定感が低い人は、自分に厳しい期間が続くと耐えられなくなるので「ストレス発散」といった名目で

「今日だけは甘いものを好きなだけ食べていい日」

みたいに、自分に「許し」を与えることでなんとか繋いでいるのだ。

これがうっすらと続いているのが、生き辛さの元凶かもしれない。

あなたよ、あなたに許しを与えたまえ

長々と書いたけれど、内容なんてどうでもいい。

これは、私が自分の体験を整理したに過ぎない。

もしも何かを伝えられるのだとすれば、
自己肯定感が低くて苦しんでいる人に一言だけ伝わればそれでいい。

「自分のことを許してあげてもいいんだよ」と。

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