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【読書感想】(小川洋子さんのエッセイを読んで)短い感想に潜む尊さについて

昨日、小川洋子さんの『とにかく散歩いたしましょう』というエッセイを読み終えた。まさに散歩をする時のように、終始 穏やかに読める本で、ひとつひとつのお話を、景色を楽しみながら歩くかのごとく ゆっくり読ませていただいた。クスッとするところもあれば、ホロりとするところもあって、小川さんの繊細な文から自分の心がどんどん豊かになっていくのがわかるものだった。また各エッセイの中では小川さんの読んでこられた本の紹介などもあるので、小川さんのファンのかた以外でも、そういう意味で興味深く読めると思う。はい、結構オススメな本です。

さて、その小川さんの あるエッセイの中で、下のような文があった。今回は、それについて思ったことなどを書いてみたい。

「今日、遠足に行って、楽しかった」  という一文は、実はとてつもない名文なのだ。大人たちはあれこれ取り繕っているが、楽しい時は、楽しいとしか書けないものなのだ。と、そんなことを考えた。

エッセイ『「る」と「を」』より

その子の感想が「楽しかった」、「面白かった」というひと言だけだった場合、多分もっと年上の子もそうだろうし、大人なら必ず、「なにが(なんで)楽しかったの?」と聞いてしまう。大抵の場合、そこに悪気とか困らせようとかいう気持ちは全然無くって、むしろ、もっとその子の感情の出どころや、好きなことが何かをよく知ろうとするからゆえ、自然にしてしまう質問だと思っている。逆に話す方も成長するにつれ、自分の感情をしっかり伝えるためには、まず最初に、「何がどうで、こうなったから」という5W1Hみたいな前置きを話さないと、相手に思いが伝わらないのだと考えるようになっていく(人が多いと思う)。むしろ感情なんてものは最後にさらっと伝えるだけでよくって、それよりも、その感情に至った経緯やシチュエーションなんかを丁寧に説明することのほうが大事だ、なんてことを学習していくようになる。たったひと言 感情を伝えたいだけでも、伝える相手に しっかり汲み取ってもらえるための環境整備についての努力を怠ると、同じ言語で話をしているのに、ちっとも分かり合えない、興味を持ってもらえない、なんてシーンは多いことだろう。

そこで上の小川さんの一文である。目からウロコというほどではないにせよ、日頃相手とのコミュニケーションにおいてはWhatやWhyを聞くこと、伝えることが大事だと習い、時にはそれを相手にも押し付けようとしがちな自分も、あの一文を読んで、”削ぎ落とされたものにある 本質的な素晴らしさ”というものについて、改めて思い知らされた、気付されたと思った。

今や自撮りやスナップショットだけでなく、風景写真さえ加工するというのが流行りだ。だが社会生活を営む上で、人は自分の感情を伝える時にもコテコテなデコレーションや補正をしてしまいがちになってはいないだろうか。自分自身の混じり気の無い本当の感情を蔑ろにしていないだろうか。自分自身だけでなく、相手の「楽しかった」、「面白かった」のひと言だけだと物足りなさを感じていないだろうか。そんなことをいろいろ考えさせられたと同時に
楽しかった、面白かったを素敵に言語化する人たちの話を聞いたり文章を読むと、ああ素晴らしいな、羨ましいなと思うし、僕自身それは目指す理想の形なんだけれど、時には語彙力の無い時代に忘れ去った、今よりもっと素直な自分についても理想に入れなきゃなあ、などと思ったりさせられたことは、個人的に収穫だったと言える。

エッセイというものは、人となりが垣間見えるものだと思っているので僕は好きなジャンルなんだけど、今回小川さんのこのエッセイに出会えたことは本当によかったなあと思う。この度、そんな出会いをくれたKindle Unlimitedに改めて感謝!(回し者ではない 笑)

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