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INFP・HSP傾向がある自分、『よく言われたこと』をやめた結果。

こんにちは。INFP・HSP傾向のある自称小人属性のりさです。このnoteでは、私が「雇われずに自分の力で稼ぐ」を目標に、考えたり、実行したりしたことを備忘録的に書いていこうとしています。

今回のお題は、「『よく言われたこと』をやめたことについて」です。

『よく言われたこと』というのは、幼いころ過ごした環境の中で、家庭の保護者や周囲の大人、当時のメインメディアであるテレビなどから教え聞いた『人間とはこういうものである』という教えと言うか、共通認識と言うか、集合的無意識の共有と言うか、そういうものです。

今でこそそれは『別に従わなくてもいいもの』と思えますが、そういう気持ちに至るまではそれが世界の真理のように感じていました。もしかしたらそういった概念を幼少期に吸収していない方でしたら「そんなこと信じてたの?」と感じると思います。私も今そういう呪縛から少しずつ解放されてきていて「なんでそんなこと信じていたんだろう?」と思うことが多くあります。

今回は、そう思った『世間の呪い(笑)』について書いていこうと思います。



注意事項としての前書き

MBTIタイプ論からのINFP、HSP自己測定上のHSPは、私の性格のすべてを表しているものではありません。INFP、HSPにもさまざまなタイプ、濃さがありますので、結局私は私です。『INFP、HSPの傾向がある』くらいに捉えていただくのが良いと思います。また、MBTIタイプ論もHSP測定も言っていますが、それは人にレッテルを張るものではなく、私という人間の一番わかりにくく私としても説明しにくい部分を分かりやすくシェアできる可能性が高い定義として使わせていただいています。



1.私が呪縛を解かれるべきだった『よく言われたこと』

幼少期は以下に挙げること以外にも『~しなさい』ということはよく言われました。反抗心が強かったので結構反発していましたが、以下のことは潜在意識の中で『そうしなければ』と最近まで強く思っていたことで、後述しますがINFPやHSP傾向のある私は特にしない方がよかったことです。

・時間を守りなさい
・3食ご飯を食べなさい
・人に親切にしなさい
・人の話をよく聞きなさい
・人と仲良くしなさい
・努力しなさい
・我慢しなさい

これらのことばの最大の罠は、『人として守ること』の基本のように聞こえる、ということです。『それをしないと自分は人の道に外れてしまうのでは』とどこかで恐れていたような気もします。


2.『よく言われたこと』の正体とは…


INFPやHSP傾向のない(私の周りの多数派の)人に対する注意喚起なのだろうなあというのが、今のところの私の結論です。私にとっては呪縛にしかなく、むしろその注意を聞き入れない方が良かったと感じるので。

上記のことが世間的に私の周りでよく聞かれていた『人間が生きる上で大切にすること』のように扱われていたわけですが、それ以外にもたくさんあると思います。今回は上記の内容を更に絞って話を進めます。

1で挙げた内容はどれも、INFPやHSP傾向でない多数派にむけたメッセージであり、INFPやHSP傾向のあった私は、むしろ取り入れない方が生きるのが楽だったのではないかと思えるのです。なので、私の時代だけかもしれませんが、(ある種)一般的に(に見える)言われていることについては、INFPやHSP傾向のある方は慎重になった方がいいかもしれません。

・時間、食事について

上記で言う『時間を守りなさい』『3食ご飯を食べなさい』ですね。

私が家庭や学校などで教わってきた基本事項です。ですが、私は学校などで時間通りに行動することに多くの労力を費やしてへとへとになっていましたし、3回食事をすることは学生時代に疑問に思っていました。

私は、自分の体内時計に従うのが一番心地よいと、学生時代に気がつきました。それを知るためには、一度決められた時間から解放される必要がありました。

HSPの性質なのか、無意識に身体の状態について常に深く感じているようで、その身体のリズムで私は生きています。時計は社会が作り出したもので、他の人と時間という概念を共有するために便利な道具として使われます。本来時間は身体を通じて体感するもので、まず自分の身体の時間がどう流れているか知る必要があると思います。しかし私はそれを知る前に学校から「この時間にこれをする」を叩きこまれました。そこで、自分の身体の時間と、学校(や社会)が示す時間が自分の中でぐちゃぐちゃになってしまい、社会が示す時間になぜかいつも遅れてしまうようになりました。

これが改善されたのが学生時代で、運よく私は自分の身体の時間をじっくりと感じることができる期間を手に入れました。そのおかげで自分の身体の時間と、社会が示す時間がどれだけずれていて、私はどう合わせたらいいかが明確にわかるようになり、それから時間に遅れることはなくなりました。

これは食事にも言えることで、学生時代にやっと「おなかがすく」ことがめちゃくちゃ気持ちいいことに気がつきました。そして、そのときに食べるのが最高においしいことにも気がつき、それは1日3食でなくていいことにも気がつきました。食事をリズムよくとることは大切ですが、大人にただ言われてやるよりも、私は「自分の身体の時間(食事なども含め)」がどうかを自分でじっくりと感じることで、自分のリズムを確立することができました。

なので、私個人の体験から言えば、時間や生活のリズムは世間で言われていることに準ずるのではなく、まず自分の身体の時間を知ってから世間で言われていることを取り入れていく、と言う方が合っていると思いました。

なので、幼少期にそれをさせてくれる状況が合ったらよかったなぁと今では思います。ただ、私とは別のタイプの方なら、上記のような『時間を守りなさい』『3食ご飯を食べなさい』という戒めがあった方が生活リズムが整うという方もいらっしゃると思います。

どちらの風潮が良いか、ではなく、それは全く個人によって必要な風潮が違う、ということは言えるかなと思うし、言いたいなと思います。

・人間関係について

上記で言う、『人に親切にしなさい』『人の話をよく聞きなさい』『人と仲良くしなさい』なのですが、長い間これにとても惑わされていたと思います。

INFP、HSP傾向のある私にとって、この『言われたこと』はホント罠で、むしろ『人に親切にするな』『人の話はよく聞かなくてもいい』『人と仲良くしなくてもいい』って言ってほしかったくらいです。世間と真逆で笑っちゃいます。

なぜなら、それらはINFP、HSP傾向のある私は言われなくても自然にしていることだからです。上記のように言われることで、”必要以上に”それをしてしまっていたことは、自分を苦しめることになってしまっていました。

『人に親切にしなさい』で私が苦労したのは、”人”ということばを”誰にでも”と捉えてしまっていたことです。『あなたを大切にする人には親切にしなさい』と言ってもらえていたらどれだけ楽だっただろうか…苦笑。誰にでも親切に、ということで、どんなモラハラの人にでも、どんなパワハラの人にでも、どんなエナジーバンパイアの人にでも、親切にしてしまう癖がありました。誰に対しても情がわいてしまう性質もあいまってしまうのです。その『親切』はモラハラ、パワハラ、エナジーバンパイアの大好物で、自分が食い尽くされて終わるだけになってしまうのに。

だから、最近はよく言われていますが、親切は自分を大切にしてくれる人にだけにしようと思っています。『自分を大切に』の私なりの定義もまたじっくり書きたいとは思いますが、ホント親切の安売りは自分の首をしめてしまいますね…T-T

それと『人の話をよく聞きなさい』も私にとっては罠だと思いました。もともと何もしなくても”よく聞いている”状態なので、聞く以上のいろんな情報を吸収しているのですが、それにプラスしてさらに”聞いてしまう”状況が生まれます。さらにそれに加えて共感傾向があるので、人の話ですと”聞く=受け入れる=共感してしまう(自他の境界があいまいなため)”しかも、これも『人』と言われてしまうと『誰でも』という解釈をしてしまいがちで、だれにどんな話でも真摯に耳を傾けて、しかもその情報を自分が体感したように身体の中でイメージしてしまうので、その情報が自分にとって心地よいものやポジティブなものならいいのですが、自分にとってネガティブなものだとすごく苦しくなってしまうし、自分の状態が悪いと自分を否定してまで聞いたネガティブな情報を取り入れてしまうことが私にはありました。

しかも、今ニュートラルな状態の自分で考えると、その”話”から得られる情報は、大体自分に合っていないものの方が多く、振り返ってみると『話をよく聞かない方が良かった』『自分で考えた方向の方が合っていた』ということはとにかく多いです。そうですね、そういえば『話をよく聞いて』よかった経験はほとんどありませんでした。私が生きた時代背景や環境が本当に自分に合っていなかったということですね。そういうときは本当に自分を信じるのが一番だったんだなあと思います。

『人と仲良くしなさい』も私にとってはプレッシャーでした。内向性も強く自己表現も苦手で分かりにくい私に人が寄ってくるわけでもなく、自分からはどうアプローチしたらいいかもわからない、その辺の加減が分かるようになったのは成人に近くなってからです。これも、INFPで調和を大切にする傾向のある方なら、関係性の基礎は調和なので仲良くする方を選ぶと思います。それ以外の人とはむしろあまり関係性を持たない方がよくて、仲良くではなく普段は関わらず、緊急時に必要があれば手を貸し合う程度でいいと思います。もともと調和の意識が薄い方に向けてのことばなのだと思いますので、INFP傾向の方は聞き流していいことなのかなと思います。

・努力、我慢について

これは、私の人生にはちょっと必要だったかなと思う面もありますが、基本的には”やりすぎ”の状態でした。個人的には、努力や我慢は『オーバーロードの原則』が一番良いと感じています。このことばはトレーニング用語ですが、私は人間の能力向上全般に言える概念ではないかと思っています。

『オーバーロード』
トレーニングの用語で,普通より強い運動負荷のこと。オーバーロードを一定期間以上継続または繰り返すと,その機能は発達し,体力は一層効果的に高められる。これをオーバーロードの原則という。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

この引用には書いてありませんが、学研キッズネットの辞典では『適度な刺激(引用内で言う『普通より強い運動負荷』)』と書いてある通り、適度な刺激(負荷)を加えると能力が伸びる、ということです。

努力や我慢が必要な局面は、人間の成長に関わってくる局面だと私は思っているのですが、その努力や我慢は危機的な状況でない限り”適度”であるべきだと思います。そして、何も考えなくても自分はその適度な努力や我慢ができていたと思います。ですが、『努力や我慢をしなさい』と言われることで、普段している以上の”過剰な”努力や我慢をする癖がついてしまったと思います。

今までと違う『適度な刺激・負荷をかける』状態は、最初は少しキツいですが、慣れてくるとそれを刺激や負荷とは感じなくなります。気づかないうちに成長していると思います。そしてその状態に慣れてきたら、また新たな刺激や負荷を加えて成長を促します。そのオーバーロードの原則に従っていると、適度な刺激・負荷→成長→新たな刺激・負荷→成長→…のサイクルすら当たり前のことになって、それを”努力”や”我慢”と名付けなくなります。アスリートが『私はすごい努力しています!!!』と言わないのは、努力や我慢(=オーバーロードの原則)を続けている状態すら当たり前のことになって、わざわざ話をするようなことでもなくなるからだと思います。

なので、『努力や我慢をしなさい』ではなく『現在の自分の状態を把握して、そこに対して適度な刺激や負荷をかけ続けて成長しなさい』と言ってほしかったなぁと思います。今の自分に合った刺激や負荷は、ちょっとキツい感覚があるかもしれませんが、実は結構気持ちいい感覚だったりします。自分と同水準やそれ以下の刺激や負荷だと”つまらない””かんたんすぎる”と感じてしまい、それ以上の刺激や負荷だと”つらい””むずかしすぎる”と感じます。自分に適した刺激や負荷は”おもしろい””楽しい”と感じるはずなのです。

3.『よく言われたこと』を『自分の法則』に書き替えたら…


すごく充実した日々を送れるようになりました。

それを最初に体感したのは成人前の学生時代でした。それまで小さな違和感をこつこつ『自分の法則』に書き替えていたのですが、それが爆発的に花開いた時期があって、ものすごい充実した日々が過ごせました。それでもまだ幼かったので課題はたくさんありまし、当時はこの文章のように自分のことを説明することもできませんでしたが、そのときを思い出すと本当に幸せな気分になります。

その後、また『よく言われたこと』の呪縛にかかってしまった時期が長く続きました。最近ようやくまた呪縛から解放されてきています。

解放されてきた感覚は、本当に心地が良くて安心していてメンタルが強い感じがします。そして、ようやくこの『よく言われたこと/言われていること』を『自分の法則』に書き替えていこう!と心から言える状態になりました。その状態だと、未来が希望で輝いているように見えます。

ただ、『自分の法則』も『周りを無視した恣意的で傍若無人な法則』ではないことを付け加えさせてください。人が意識できる範囲は思っているよりもずっと狭く、恣意的で傍若無人さが出てしまう部分もあるかもしれません。なので、だからこそ意識できる可能な限りは、自分と周りの利益が最大化する方向での法則が望ましいと思います。


私は、人間は半分くらい人間の在り方を知っていて半分くらい人間の在り方を知らない、と思うようになりました。幼いときは、大人は人間の在り方を知っていて、それに従っていれば大丈夫と思っていたようですが、大人でも人間の在り方を知らない、意識をしない方は多くいらっしゃいます。私もその一人かもしれません。

なので、やっぱり人が言っていることは、その人の世界でつくられたものなので、取り入れるときは慎重になってもいいかもしれません。そんなこと言っても、幼少期に取り入れることばの精査をしろなんて言っても私にはわからなかったしできなかったと思いますが。。なので、気がついたときに、『言われ育ってきたこと』を見直して『自分の法則』に書き替える必要があると感じています。

繰り返しますが、大人も『善い生き方』は何かわからない場合がありますし、『善い生き方』の定義もタイプによりさまざまです。なので、聞き入れることばは見極める必要があるし、自分には当てはまらないことは『その点について自分はどう見ているだろう』と自分視点で見直すのはとてもおもしろいと思います。私は上記のことを発見したとき本当におもしろいと感じました。また、私の周りは多数派で構成されていたので上記のことばをたくさん聞いて、自分を無理矢理その枠の中に押し込めて息苦しかったので、これからはネットの力も借りて、少数派の方々とふれあえるような場所を見つけられたらなあと思います。

一時期、その『よく言われたこと』の呪縛で、自分の法則を見失っていた私ですが、今やっとその法則をつくりだせる、大切にできるルートに戻ってきたような気がしているので、これからも自分の法則についてまた書いていけたらいいなと思います。

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