見出し画像

「私は私の世界の実験台」、だから書くよこれからも。


幼少期、将来の夢は「うさぎさん」だった。
うさぎが好きだったから。
リアルうさぎも好きだったし、マイメロディーなどのキャラクターも好き。今でもミッフィーちゃんとか好き。
当時(保育園年少〜年中くらい)の私にとってうさぎはアイドル的な憧れの存在だったらしい。

もう少し年齢が上がると、将来の夢は「お花やさん」「ケーキ屋さん」に。
……正直まったく覚えていない。アルバムにそう書いてあったけど、自分でも心当たりがなさすぎる。
多分、なんとなく雰囲気で書いてたんじゃないかな。

小学校低学年〜4年生くらいまでは「ペットショップの店員さん」になりたかった。動物が好きだったから。
でも、ある日ペットショップの裏事情を知ってしまってからその夢はしぼんでいった……。

小学4年生くらいから、料理とお菓子作りに目覚めた。
長年抱きつづけた「ペットショップの店員さん」というぼんやりとした夢は、「料理人」か「パティシエ」というやや明確なものに変わる。

物心ついた頃から絵を描くのが好きだったから、母親にはよく「将来はイラストレーターになったら?」なんて言われたりもしたけれど、当の本人はあんまりピンときていなくて。
絵を描くのは好きだけど、それを仕事や夢にするのはイメージが湧かなかったのだ。

文章を書くのも好きだった。感想文とか作文の宿題なんかはいつも嬉々として取り組んだ(ただし書くのはその頃から遅かった)し、何度かコンクールで入賞したりいろんな人に褒められたりもしたけれど、「うれしいなぁ」という感情以外は特になかったような気がする。
いちばん印象に残っているのは、小学4年生のゴールデンウィークに「作文が書けない」という作文(原稿用紙5枚分+裏っ側)を書いて先生に褒めてもらったことだろうか。
あとは、学校に来た移動ミュージカル(?)を見て感動して熱量高めの感想文を書いたら、音楽の先生が褒めてくれたこととか。あれも4年生だったはず。
その頃からなんとなく、文章が自分の「武器」のひとつであることを自覚し始めたけれど、特に物書きになりたいとは思わなかった。

中学2年生、とても大切な音楽に出会った。
その翌年には音楽雑誌のインタビュー記事で転機となる言葉に出会い、私は秘かに音楽の道も志し始める。
自分が音楽をするだなんて、思ってもみなかった。だって私は人前で歌うことができないのだから。
それでも、その恐怖さえ乗り越えたいという強い情熱が心の奥に灯った。

調理科のある高校へ進み料理の勉強をしながら、ギターと歌も独学で勉強、練習していった。
高2の文化祭でついに、「人前で歌えない」壁を打ち破ったものの緊張で歌もギターもめちゃくちゃだった記憶しかない。
その後、3年生を送る会でリベンジしたときが本当の始まりだったと思う。

高校卒業後は、親の反対を押し切るかたちで音楽の専門学校へ進学した。
大好きな友だちと同じ製菓学校へ行く選択も、憧れの路上ミュージシャンと同じ福岡の音楽専門学校へ行く選択もあったけれど、そのどちらも選ばず誰も知り合いのいない、故郷から遠く離れた大阪の音楽の専門学校へ。
きっと私はすぐに甘えたり怖気付いたりしてまた歌えなくなってしまうから、何がなんでも音楽をするしかない環境に身を置きたかったのだ。

音楽の専門学校へ通いつつ、調理系のアルバイトで生活費を稼ぐ日々。
スピード勝負でありながら衛生面や丁寧さにも慎重にならねばならない現場で、私はその両立ができず焦ればミスの連発、丁寧にやれば仕事が遅くて迷惑をかける……と散々で、わずか数ヶ月でクビを言い渡された。
その他にもさまざまな経験を経て、私は次第に「料理は好きだけど仕事にするのは向いていないのかもしれない……」と思うようになる。
趣味でのんびり、楽しくやればいいや、と。
いっそう、音楽活動に全力を注ごうと決めた。

その後は別のアルバイトに恵まれて、学業(音楽活動)と生活の両立も上手くいっていた。
技術面で優れていたとか、何か大きな成績を残したわけじゃないけれど、専門学校に通っていた2年間はとても幸せな日々として私の記憶に刻まれている。

そんな専門学校を卒業して間もなく、私は自分の人生において想定していなかった出来事に直面する。
詳細については伏せるけれど、恋愛経験も、社会人経験もすっ飛ばして私は「お母さん」になったのだ。
あれから10年以上が経った現在。
音楽の道を志していた私は、家では「お母さん」または妻と呼ばれるポジションにいて、職場では「調理員さん」と呼ばれたりしている。
そして、そのどちらからも離れた自分でいられるときはよく文章を書いている。
他にも音楽を聴いたり、相変わらずお菓子を作ったり、たまに絵を描いたり。

結婚して子どもを産んだあともしばらくは夫とライブや音楽活動をしていたけれど、私が家事育児仕事と音楽活動の両立ができず精神的に追い込まれたことを原因に活動を止めてしまって随分と経つ。
今の私は極々まれにギターを引っ張り出して鳴らしたり歌ったりする程度。
弦はすっかり錆びて、うっすらと埃の被った「相棒」を見るたびに申し訳ない気持ちになる。

仕事はずっとアルバイトを転々としてきた。
今ようやく、私としては最長の4年目となる職場で働けている。
なるべく避けてきた調理の仕事だけれど、生活のためには躊躇している余裕はなかった。
最初はまたすぐに辞めることになるんじゃないかと不安だったけれど、結果的にたまたまとても働きやすい環境に身を置けたおかげで、今は安定して働くことができている。
やり甲斐云々というよりは、生活のための仕事。
黙々と、自分のするべきことをこなす日々。

今の私には、別の夢が……野心がある。
小説を書いて文学賞に応募して、入賞してその賞金で生活を立て直すという突拍子もない夢が。
自分でもわかっている。無謀に近いということは。
それでも、結婚してから10年以上つづくこの苦しい生活から抜け出したい。
電気やガスが止まるかもしれない不安や、督促の電話から解放されたい。
美味しいものを食べて、好きなものやことにもう少しお金を、気兼ねなく使いたい。子どもたちにもいろんな経験をさせたい。
真っ当な人間として生きたい。
でもそれらはどちらかと言うとオマケみたいなもので、私が小説に挑戦する本当の理由は、もっと単純な好奇心に由来している……と思う。

小説以外にも、毎日どこかしらで文章を書いている。
書く内容は雑多でバラバラ。でも昔から、音楽に関する文章をよく書いていると思う。
音楽の文章を書くのはなかなかエネルギーがいるけれど、書いてて楽しいと思えるのもまた音楽の文章で。

話が前後するけれど、音楽の文章を書いてはじめて評価されたのは小学生のときだった。先述した、移動ミュージカルの感想文だ。
内容はほとんど覚えていないけど、最後に「このワクワクを誰かにも分けたい」みたいなことを書いたのは覚えている。
これ、今でも変わってないんじゃないかな。
何かに感動して、それを思わず誰かにも伝えたくって書いてるようなとこあるから。
その感想文にとても感激した音楽の先生が、わざわざ廊下で私を呼び止めて直々に感想をくださったのはうれしかったなぁ。

その音楽の先生は当時お腹に赤ちゃんがいて、生まれてくる子どもに私と同じ名前をつけたいとまで言うほど、私の感想文を気に入ってくださった。
そんな先生のことが私も好きだった。
けれど、私が人前で歌えなくなってしまった原因もまた、その先生で。
……いや、先生は全くわるくなくって。
ただただどこまでも私の弱さが原因なんだけれど。

発端は、歌のテスト。
先生の前で一人ずつ歌って、それを評価するっていうあれ。
私はいつになく緊張していた。
あんなにたくさん褒めてくれた先生に、大好きな先生に歌を聴いてもらうのだから当然といえば当然かもしれない。
どんな歌を聴かせてくれるんだろう……とでも言うようなキラキラした目で先生がこちらを見ている。

「上手に歌わなきゃ……!」
そう思った瞬間、身体が固まって声が全く出なくなってしまった。
どうしたんだろう?という先生の心配そうな目。
はやく、はやく歌わなきゃ……と焦れば焦るほど身体がこわばって声が出ない。
結局私はひとことも発することができないまま、先生のピアノの伴奏が終わりテストは終了。

あぁ、ガッカリさせてしまったかも…… と思った。
上手になんて歌えなくたって、いつも通りのびのびと、楽しんで歌えたらそれでよかっただろうに。
大好きな先生の期待を裏切ってしまったかもしれない、失望されてしまったかもしれない。そう考えると怖くて悲しくてたまらなかった。

そしてそれ以来、私は人前で歌を歌えなくなってしまった。
合唱みたいに周りの声で自分の声が埋もれるような状態なら歌えたけれど、誰かが側にいるときに鼻歌とか、友だちとカラオケとか、歌のテストとか、ましてやステージで歌うなんて怖くて無理だった。

人前で歌えなくても人生なんとかなるもので、別に無理して克服しようとしなくてもいいや……と、いつしか思うようになっていた。

そんな私にもう一度「人前で歌えるようになりたい」と思わせてくれた存在。
それこそが、中学2年生のときに出会った運命の音楽…… BUMP OF CHICKENだった。

その翌年に読んだrockin'on JAPANという音楽雑誌(BUMPが巻頭表紙になっている2004年の8月号)に載っていたインタビュー記事。
そこでBUMPのギター&ボーカルであり作詞作曲者である藤原基央さんが語っていた内容に、カミナリに撃たれたような衝撃を受けて。
自分が気付いていなかった、もしくは気付いていたけれど見ないふりをしてきた願望を、照らし出されたような気がした。
あのときから私は音楽の道を志し始めたのだ。

その後については、先述の通りで。
結局私は、ミュージシャンにはなれなかったのだけれど。


ここまで長々と、でも32年間の振り返りと言うには簡潔すぎる自身の人生をつづってきたけれど、今の私は別段「何者かになりたい」わけではないらしい。

相変わらずお菓子作りは好きだし、絵もたまに描くし、昔みたいには弾けないけれどギターも時々弾くし歌を歌うのも好き。文章もずっと書いている。
でも、それらで何かしらの肩書きを得たいとか有名になりたいという気持ちは特にない。

挑戦している小説だって、小説家になりたくて書いているわけじゃない。
……なんて言うと、本気で何者かになることを目指している人に失礼かもしれないけれど。

誰かと競うのが苦手、嫉妬はするのもされるのも苦手(全くしないというわけじなゃない。人間なので)、何者かになりたくないetc.
百戦錬磨の表現者たちから見れば私の(逃げ腰とも受け取れる)姿勢はきっと甘っちょろいことこの上ない。
生温い、覚悟が足りないと言われてもしょうがない(※実際に誰かに言われたわけではないです今のところ)
サバンナだったら真っ先に食べられてしまうようなタイプだ。

じゃあどうして私は小説に挑戦したり、文章を書きつづけているのだろう。
文章を書く理由はいろいろある。今ここでそのすべてを述べると長くなるので割愛するけれど、ひとつだけ。

私は、文章を書くことで「私という人間の成長物語」を楽しんでいるんじゃないだろうか。そう思っている。
文章を書くことで得られる達成感とか、自分の心に向き合うことで見えてくる新しい自分とか、心の機微とか。
言葉にできない気持ちを言葉にして、それらを繋いでひとつにしたときのパズルのピースが揃うような感覚も。
文章を書く中で出会えた人、起こった出来事、それらが私という人間に及ぼした影響も。
そのひとつひとつを楽しんでいる。もちろん、楽しいことばかりではないけれど。


この考えに至った瞬間、私の中にある音楽が流れた。

私は私の世界の実験台
唯一許された人

(1997/リーガルリリー)


〈私は私の世界の実験台〉

本記事のタイトルにも引用させてもらったこの歌詞は、リーガルリリーの『1997』という曲のBメロ部分。

……初めて聴いたとき、よくこんな歌詞が出てくるなぁと衝撃を受けた。
でも、全体的にどこか曖昧さのある(それがいいんだけど)歌詞を深く掘り下げて聴こうと思ったことはあまりなくて、今まではどちらかというと曲の世界観や雰囲気が好きで聴いていた。
それが突然、歌詞が自分の中にストンと落ちてきたのだ。

私は私の世界の実験台。
私がどうなっていくのか、私でも分からない。
小説も、書きながら物語が成長している。更新されてく。自分でも予想していなかったような方向へ物語が進んでいったりする。
(こんな調子で本当に完成させられる日がくるのかという不安は今は一旦置いておく)

すぐには成し遂げられなくても、果てしない道だとしても、いつかその先を見たくて。行く末を見届けたくて、書き続けている…… そんな感覚。

そんな道の途中で、心がぽっきりと折れてしまうこともある。


きみはおんがくを 中途半端にやめた。
きみはおんがくを 中途半端に食べ残す。

(リッケンバッカー/リーガルリリー)


初めて聴いたときはグサリときた。
私は「おんがくを中途半端にやめた」側の人間かもしれないと思ったから。

リッケンバッカーが歌う
リッケンバッカーが響く
リッケンバッカーも泣く
おんがくも人をころす

(リッケンバッカー/リーガルリリー)


あんなに夢中になった、本気だった、応援してくれる人もいた。
そんな音楽を、私は私の都合で中途半端にやめてしまったのかもしれない。その後悔や罪悪感にふと苛まれることがある。

でも、最近になって友人とこんな話をしたのだ。
「音楽に“やめる”なんてないよね」と。

友人は、同じ音楽の専門学校に通っていた。
私は彼女の音楽が大好きだ。
卒業後も彼女はライブ活動をつづけ、私も何度か彼女のライブへ足を運んだけれど、ある時を境に彼女はライブ活動から身を引いた。
けれど、私は彼女が「音楽をやめた」とは思わない。
彼女の心の中にはずっと、音楽が大切なものとして存在しているのが分かるから。
彼女は今でも音楽の話をするときとても楽しそうで生き生きしているし、今後もふとした瞬間に新曲が生まれたり、それをいつかまたどこかで、なんらかの形で歌う日だってくるかもしれないから。

同級生の中にはメジャーデビューして武道館でライブするようになった人もいるし、デビューせずとも今もライブハウス等で精力的に活動を続けている人もいる。
そんな中で私は実質「やめてしまった」側の人間ということになるのだろう。

でもどうだろう。
私の中の音楽への気持ちは完全に消えてしまったのかというと、決してそんなことはない。むしろ、年々音楽への思いは増していくばかり。
たとえステージに立って歌うことがなくとも、誰かに歌詞を提供したり、「音楽の文章を書く」という形で音楽をつづけていると言えなくもないのかもしれない……なんて。

音楽に限らない。
文章でも絵でもなんでも、「やめる」なんてないような気がしている。
たとえ日々がホコリを被って腐っても。たとえ病気やケガでつづけるのが困難になったとしても。
自分の中で「好き」だという気持ちや、大切だと思う気持ちが消えない限り、私は「やめた」と言い切ってしまうことができそうにない。
私がいつも「実質やめたような」とかいう歯切れのわるい言い方をする理由はきっとその辺にある。

専門学校卒業後の私の人生を見た親には「大阪(音楽の専門学校)になんて行かせるんじゃなかった」と言われたりもした。
側から見れば私の人生は、選択は「失敗」だったのかもしれない。
心配ばかりかけて、本当に申し訳ないと思う。
でも、少なくとも私にとってあの日々は紛れもなく「宝物」だった。失敗なんかじゃないよ。
あの日々に、あのとき出会った人たちに今でも救われているのだから。

デビューした人や今でも音楽を続けている人たちはもちろんとてもすごいんだけれど、実質「やめてしまった」と言われる人たちも本当に素晴らしい音楽をしていた。そこに優劣や勝ち負けはないと思っている。
諦めないのも続けることも、目に見える結果が残せることも素晴らしい。でも心に響く音楽はそれだけじゃない。
本当に本当に、私も含めて多くの人が名前も知らないような、それでも素晴らしい音楽が世界にはたくさんあるんだよ。

世界の片隅の中心で存在を叫んだ人たちがいたこと、誰かの心を震わせた音楽があったこと、できるだけ知りたいし覚えていたい。
その存在に何度も勇気をもらったから。


文章にしたって、ずっと書いていたら筆が進まなくなることはある。
書くのが怖くなったり、自信がなくなったり、気持ちがのらなかったり。
ここ最近の私はまさにそうで、いろいろな出来事が重なった結果自分の至らなさに直面して、完全に気持ちが地に落ちていた。
このnoteにしたってもう2ヶ月前から書き続けているのに、なかなか完成させられなくてどうしたものかと(文章自体は他の場所でちょこちょこ書いていたけれど)

今の私は「そのままでいいよ」とか「もう充分頑張ってるよ」などといった言葉をよすがにして甘えてしまえないくらい、昼夜問わず自分を責めてばかりいる。
今もまだそこから抜け出せず、毎日毎日、出せない悲鳴で心臓が張り裂けそうだ。

けれどそれさえも創作をする上では貴重な資料となる。
もう二度とこんな思いはしたくないと思うほどのことでも、その瞬間にしか得られないリアルな感情は見過ごすには勿体なさすぎると思うから。
それらもすべて、物語に落とし込もうとするくらいのしたたかさは私も持ち合わせている。
だからきっと生きていける。
これからも、書いていける。


おんがくよ、人を生かせ。
生かせ 生かせ

(リッケンバッカー/リーガルリリー)


サバンナのすみっこでも、生きさせてほしい。小さな声でも、存在を叫ばせてほしい。
そんな私の声を見つけてくれた人たちと、いつか一緒にまだ見ぬ景色を見られたらいいな。なんて、やっぱり甘っちょろいことを考えながら、これからも私は私の世界を生きていくよ。

いくつもの「ごめんなさい」と「ありがとう」を携えて。





〜最後にちょこっと追記〜

今回タイトルに歌詞の一部を引用させてもらったリーガルリリー。11/24に新譜がリリースされます。
アニメ『86ーエイティシックスー』のエンディングテーマになっている『アルケミラ』と、『チェインスモーク』、そしてくるりの『ばらの花』カバーの3曲入り。

『アルケミラ』はすでに配信リリースされていて私も聴きましたが、イントロから心地良い違和感に心掴まれるし、まだ見ぬ(聴かぬ)『チェインスモーク』も楽しみ。
それに、リーガルリリーの『ばらの花』カバーとか想像しただけで良すぎる。

来週、11/27(土)の21:00にはボーカル&ギターのたかはしほのかさんによる弾き語りライブの配信も。


もしこのnoteを読んで(曲を聴いて)ちょっとでもリーガルリリーいいなと思っていただけた人がいるなら、ぜひチェックしてみてください。私も楽しみです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?