「100日後に死ぬワニ 追悼記念 生と死は等価値なのさの意味」
果たして、ワニくんはどうなったのかーーー
その余韻を許さず、めっちゃ召されてる!!!
100日目についての考察はいろいろあって、あと怒涛の広告攻勢に辟易している方々もいらっしゃるようなのですが、まぁそこにどうこういうのはあれですね!
いやまぁでもね、こういうのってはのはやっぱ過程が大事なんだろうなぁと思いましたね。
100日間にわたる日々の積み重ね。それこそが感情の源泉なわけですよ。
だって、どうかんがえてもフィクションの(作者の体験が投影されているかは別として)ワニくんが死ぬかどうかに感情を揺さぶられるのは、ワニくんへの感情移入であるわけで、それは毎日の更新を追って、ジョジョに高まっていったわけですよ。
けっして、ワニくんのスペシャルなユニーク性(唯一無二な存在感)の価値の喪失に悲しみを持ったわけではないわけですよね。
星の王子様の かけがえのなさは君自身が作り出した的な、そんな話。
それを100日間かけてじっくりと伝えてくれた作品だったんじゃないかなぁと思います。
いきなり100日間をずらーーーーーーーーっと列挙さえても、あれじゃないですか。単行本になったらしょうがないけど!!!
ここにしかなかったリアルタイム性、ここだけの感情。これこそがワニくんの深みだったわけですよ。
天外魔境ZERO的なね!!!!!!!!!!! 発想!!
※天外魔境ZERO スーファミででた天外魔境。24時間のタイマーが入っていて、リアルタイムで夜になるとゲームの中も夜になる。
これって人やブランド、いろんなものに通じると思うんですよ。
よくブランドとはどういったもの議論になるとおもうんですが、性能とか品質とか比較対象を超えて、選ばれるとコテツさんがいってましたが、こういうことなんだなぁと思います。
そして、人は誰しも、だれかのブランドなのだろうな、と。
そうなるためには、世界一のなにか、ではなく、そのものがどういうものなのか、が大切なんだろうな、とワニくんを見ていておもいました。
そして、あと、死っていうのは、あっさりと、そして、日常に潜む非日常なんだなぁ、と。
ここまで明言されていながら、それでもなお、自分の中で、ちょっとしたオチで日常が続くと思っていた。そう、だれかが失われても、日常は続く。
生と死は等価値だと、カオルくんがいったようなだれかがもっと前にいったような、気がしないでもないですが、生と死は等価値なのは物理的にまっとう。
というよりも、生物と無生物が連続的続いているように、生とは人間的な見方なだけで、生きている・死んでいるという概念自体もまた人が作ったある種の感情に過ぎない。
科学者なんかは、生物を動的秩序と呼んだりもするけれども、生物とは事象であり自称であり、現象にすぎないわけで、岩が砕けて砂になったとしても、物体の形が変わっただけで、価値が移り変わるだけ。そこに高低も大小もない。
寂しいのだろうか。生を尊ぶべきだろうか。
いや、物理的にはそれでいいんだろう。
科学に、心情や感情の良し悪しを委ねてはいけない。それこそが、考えることの放棄だから。
人はいつか死ぬ。友人が親戚の葬式に出てた時、もう100歳近い人が老衰に近いかたちでなくなり、参列者の一人が「大往生でしたね」といったら親族からむっちゃ怒られた話を聞いたことがあるんですが、
「もっと生きて欲しかった!!!!」と。
世間一般で100歳近くで老衰なら大往生だとおもいますが、それがそれで受けいられれるわけでもない。
そういうもんなんでしょう。死ってのは。
等価値だからこそ。そう価値を定めるかは人次第。自分次第。
とりあえず、単行本は買おうかな。
最後まで読んでくれて thank you !です。感想つきでシェアをして頂けたら一番嬉しいです。Nazy