最後に会いに行かなかったこと
「いつ亡くなってもおかしくないです」
老人ホームの方にそう言われました。
103歳になる祖母がいました。
亡くなる数日前にコロナで会いに行くことは禁じられました。
けど、息を吐くのが苦しい状態になり、
ベッドで寝るのではなく車椅子で下を向いている方が息が吐きやすくて楽だと。
そう連絡が入りました。
その時『3人一緒に15分のみ』という条件で、面会が許されました。
私は職種もあり、シフト制で。
祖母からすれば一番遠くに住んでいる孫でした。
最後の刻を待つ覚悟だけを持ち、時間が過ぎていく中で託された15分。
私は、会いに行きませんでした。
この決断には、この先の人生で一生付きまとうかもしれない、
『後悔の涙』と『疑われる目』と戦う勇気が必要でした。
私は全然会っていなかったから。
それには考えがあって。
祖母には3人の子どもがいます。
私にとっては親、伯父、叔母にあたります。
最後は子どもに会ってほしかった。
祖母がお腹を痛めて産んだ『子』に。
そうする事が一番良いと思いました。
戦争を経験し、東京タワーがまだ出来ていない頃。
縁側には風鈴と蚊取り線香があり、スイカを食べていた。
蚊帳を布団の周りに広げ、何故か少し開いた雨戸。
そんな写真を見たのです。
その時代にタイムスリップできる訳でも何でもない。祖父は私に会うことなく空へと旅立った。まだ白黒の写真から伝わってくる空気が温かかった。
時を経て、大家族になり曽祖母になった中で、二度と取れない時間だと思いました。
不思議なのですが、私は祖母に最後いつ会い、どういう会話をしたか覚えています。
遠くなった耳に大きな声で、
「また来るね!」と言って片手を握りました。
祖母が手探りで私のもう片方の手を取り、
「はいはい、またね」と、優しい笑顔で言いました。
まるで一緒に喜んでいるような体勢になり、
可愛く微笑んで言われた時、私にはなぜか、
『もうすぐ自分にはお迎えが来る』と分かっているのではないかと感じたのです。そして、 『もしかしたら会えるのは今日が最後になるかもしれない』と、どこかでそうも思いました。
ずっと生きる事に前向きだった祖母を尊敬しています。
きっと、良い人生だったと思います。
面会の日、4人の時間を15分過ごし、
ゼリーを食べて「美味しい」と言っていたそうです。
他にも顔を見たかった親族は沢山いたはず。
ただ、私と同じように
『会うなら元々の家族で』と言う意見が多かった。
記したいことはひとつ。
少しでも昔と同じ時間を過ごせて良かった。
きっと来ていたと信じて。
祖父も入れて、5人一緒に。
子どもに囲まれて幸せだったはずです。
心から良かったと思えました。
父が車で帰って来る途中、息を引き取った連絡が入り、また老人ホームへと向かったのでした。
不思議でした。家族の時間が終わったら、ほとんど苦しまず自然と呼吸をしなくなるなんて。
その日美味しくゼリーを食べて普通に話せていたのにね。
私は間違えたと思っていない。
「会いたい」と立候補しなかったことを。
生きていれば辛くて、苦しくて、自ら、
『人生終わらせてしまいたい』なんて思うことも無い訳ではない。
でも祖母は車椅子になっても、視界が見えにくくなっても耳が遠くなっても。
ずっと生きることに前向きだった。
100歳超えてもよくしゃべって、一切ボケていなかった。
ネガティブなことを口にしなかった。
生きたね、お婆ちゃん。
自然な人間のサイクルで安らかに眠れたことが
大往生と胸を張れると思います。
「指の運動なんだ、使わないとダメになる」と言い、ずっと折り紙で鶴を折っていたね。
凄いね。偉いね。
旅立つ前の2週間という期間は、早朝と夜中の電話が本当に怖かった。
そして本当に良かった。
なかなか会いに行けなくてごめんね。
でも、最後の選択は間違えていない。
会えなかった分、動画を撮るようにお願いしたからね。
火葬場では赤飯が出ました。
ご苦労様でした。
そして、初めてお婆ちゃんがこの世にいない刻を過ごしてまいります。
最後に良い人生だったと思える道を歩きたいと思っています。
本当に沢山の思い出をありがとうね。