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彼らの幸せ恐怖症


有り余る想像は、飼い慣らさないと手に負えなくなる。この一連の流れで、どうやらやはり、存在には代えがいると実感したはずだ。

でもそれは悲しいことではない。むしろそれでも自由に生かされていて、その余白の中で遊ぶ権利を与えられている、ということ。


なんだか最近、素直が評価されすぎている。いや、素直は大切なんだ。でも、素直にすべてを発言することが正義ではないはずだ。

暇になって、余白での遊び方なんて知らないから、素直になるしかないだけ。
……なんて、さみしい。自分を醜くしてまで生きながらえる必要性なんて、教わってない。


「誰かがよく言う、ふつう、を得て生きたいとしたら、必要以上の感情なんていらないんだよ」

彼女は突然、冷静な顔をして言い放つ。

「しあわせがこわいとか、苦しんだあとは報われるとかそんなの嘘だって、ある程度大人になれば気付く。そしてその変化の渦の中に、ふつうを探すのは難しい」

いいことがあると、なにかがおこる…代償のような、しあわせに課税されているような気がしているのか。というより、必要以上の感情には、無意識に課税されている。種類ではない、絶対値評価だ。

読めるはずもない行間を解釈して暴れても、全然かっこよくない。がっかりするなんて、おこがましい。声を上げるのは大事だけど、それにしか頼れないのは危なすぎる。

自身に素直であることと、素直にそのまま伝えることは、たぶん、ちがう。想像と事実と解釈の線引きもできないまま、感情を処理したって疲れるだけだから。


「さみしさの殴り合いから、できるだけ多くのひとが帰ってこれるように」

期待していないわけじゃない。ただ、わたしたちはずっと、笑顔の裏で冷静に、彼らと戦っているだけだ。

「知られない」を乗り越えた先、わたしたちだけの、余白で待ってる。

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。