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絶対的余白戦争

桜は4月を忘れたりしない。そしてここが、なにかしらかの節目であることを絶対的使命として悲しくも嬉しくもそれを知らせる。一言だけ言いたい。4月、ちょっと花粉がひどすぎる。

久しぶりにデパ地下でお惣菜を買った。閉店間際のショーケースに貼られた値引シールが贅沢を許す免罪符のようで嬉しかった。値段を見ずに好きなものを選んだら、ほとんどが変わったサラダだった。よくがんばったな、と簡単に自分を褒められる贅沢はすごい。今日もごはんはおいしい。

この1年はこれまでで1番意味不明で、軽い言葉でまとめたくはないけれど、とにかく楽しかった。親友の子どもは3歳になり、友人は結婚し、彼女は転職をした。相変わらずわたしは一言で言い表せない仕事をしているけれど、なかなか気に入っている。目に見えない理不尽はまだまだたくさんあって、対峙するたびによく腹をたてたが、一緒に戦えることの尊さと、心強さがあることを覚えた。

さて、20歳をすぎるかすぎないかぐらいからわたしが守りたいと思い続けているものがある。この余白を絶対的に守りたい個人的大戦争について、なんとなくの節目として書いておこうと思う。

余白とは、選ばなかったこと、食べなかったもの、行かなかったところ、言わなかったこと。すべてが選択であり、行間であり、余白である。そしてそれを改めて解釈し直すことは誠意だとも思う。誰が何を言って、何を言わなかったか。何を感じて、何を感じなかったか。

余白とは、「知らない」ことを免罪符にしないこと。きれいなものを探すこと。でも、誰かが伝えないとその余白は可視化されない。余白とはおそらく物理的なものでもあり、意識の余裕でもあり、選択肢の広さのことも指す。
だからこそわたしは、伝えることを諦められず、届かずに選ばれなかったもの、をなるだけなくしたいと思い続けている。多分、ただのエゴであり青さで、きっと分かってくれるひとは多くはないかもしれないけれど。

「わからない」を楽しむ余地、それをわからないままで持ち続ける余裕、知らないものを混沌のままに捉えておく勇気。そういういろんなものが余白であり、わたしなりの芸術への敬意であり、諦めきれないことであり、誰かはそれを才能だと言った。そうだといいな、とたまに思う。

余白は大人の嗜みであり、時々誰かの夢になり、たまに誰かを生かす。知るために、知らせるために、まだまだやめられないことがいくつもある。できることをできないと言って自分に嘘をつくのは嫌だし。守りたいものなんてそれぐらいなので、これからもまだまだ攻めるぞ、と残しておく。なんたって、春なので。

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。