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好奇心を着た日

この夏は、随分と上手(うわて)だった。そろそろ期限が切れてきたか、夜の涼しさを手に入れて意気揚々と歩いて帰ったら、案の定汗は止まらなかった。ちょっと敵わない。

一番わくわくする汗をかいたのは、高校の夏。修学旅行で中国に行ったわたしたちは(旅先が選択式だった、今思えば公立にしては随分自由だ)定番観光ルートをまわり、とある観光ストリートへと行き着いた。

修学旅行の自由時間にはいくつか決まりが課せられる。ひとつは集合時間を厳守すること、ふたつめはルールを破らないこと。そこでのルールは「この裏路地には入ってはいけない」というものだった。理由としては、先生の監視下から外れて助けてあげられないこと、メインストリート以外は治安が悪いエリアがあること、だった。生徒たちがその約束に承諾して散らばって行く中、わたしと友人は目配せをした。あとにも先にもあんなに悪い目配せをしたことはない。2人はメインストリートのお土産を物色しながら、隙を見て裏路地へと一直線に走った。17歳、国際犯罪デビューの日の出来事である。

覚悟は決まっていた。メインストリートへと向かう途中、裏路地を遠目に見ながら見つけたのは、まわりのどこよりも煙を出しているちいさな中華料理の店だった。地元のおっちゃんと思われる人がフラッと入り、出ていく様子がうかがえた。“生の中国はここにある”―――そんな17歳の犯罪の手口に戦略などなく、隙を見て裏路地へ走るという単純明快なものだったが、10コで200円(だったような気がする)くらいの破格で手に入れたアツアツの小籠包はスリルも相まって格別だった。走った汗と、スリルによる冷や汗と、小籠包の湯気によって熱気を増した顔まわりはどんな夏も超えられない。

あとから調べてわかったことだが、たしかにそのエリアはあまり治安がいい方ではなく、先生の指示は言い聞かせるための口実ではなく事実だった。ただ(運がよかったこともあるかもしれないが)、わたしたちはとても気前がいい店員さんからその忘れられない夏を手に入れることができたし、なんなら「やっほー」みたいな大阪のおっちゃんみたいなノリの人がすれ違いざまに気前よく歩いていたし、やはり人間は見たいと思うものしか見えないものなのだ、とも思った。

2023年夏。働く大人、として社会に出て数年が経った。見たいものしか見えない、という認知を獲得してもなお、見えないものはいくつもある。というか、決して表には出ない話がたくさんある。世の中にある“品”というものがなにを言ってなにを言わなかったか、と同義なのと同じで。なにを選んで、なにを選ばなかったかが余白なのも然りで。やさしさによって、思いやりによって、たまに戦略的思惑によって可視化されないものが存在する。繁華街や名前も思い出せない居酒屋で消えていった、言葉にできなかった気持ちの裏側で、数字は動かされていて世の中はまわっている。それがビジネスであり、働くことであることの認知と理解を自分の体にアップデートしてみた。その動きがだいぶできるようになって、意外とそれは操られているという感覚ではなく、むしろゲームのようで楽しいものだ、と今は楽しい気持ちが多い。たまに自分の思考の中で17歳の夏の国際犯罪(のような。実際には犯罪ではない、日常レベルの“やってはないけない”に触れてみるあそび)で気を紛らわせて好奇心を飼い慣らしている。

正解に向かって歩くより、自分の好きなものに手を伸ばしながらもがいていたい。上手に泳いで速さを競うより、溺れそうな境目で誰かが目を奪われる一瞬の何かを生みだしたい。そんな小さな正義は、好奇心によって未だに自分の中にずっとあるし、青いなあとたまに嘲笑しながらも気に入っている。 ずっと走るのは疲れるよな、たまに息切れしたりするし。

でも、走ることを制御された途端に退屈が押し寄せて、その世界にわたしはきっとわくわくしない。見たいものも、もう少し手を伸ばせば見えそうなものも、自分の目で確かめたい。これからも好奇心には貪欲にいく、まだその服は脱がない。

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