社会の敵

昨今、『持続的可能な』という言葉があらゆるメディアで見られる。

経済の持続性、社会の持続性、環境の持続性。これらを阻む者が敵のように宣伝されている。
私には、これらの持続性という言葉が、権力者の力の維持や、富裕層の富の拡大の為の方便のように使われているように思える。

カール・ポパーに拠れば、支配階級と被支配階級とを分つ開かれた社会が団結し、その地位や利益を維持し、持続する為に、支配階級は必ず共通の敵に見立て、矛先がこちらに向かぬよう、被支配階級をその攻撃対象にしている。

ナチスドイツのユダヤ人差別などがその例として上げられる。

また国家の支配階級の地位持続と大衆の団結のため、他国を攻撃の対象とした例も歴史上数多く存在する。日本の反米感情、現在の反ロ感情もその一例と言えるだろう。


小規模な視点に立って観る。

例えば学校では、クラスに明文化されないカースト制が敷かれ、支配階級と被支配階級に隔てられる。


いじめを考える。


カール・ポパーの思想に則れば、カースト上位の支配階級がその地位と安寧を維持するために、被支配階級の中に共通の敵を作れば矛先が支配階級に向くことはない、
という理屈でいじめが行われる。


反対に、いじめっ子を晒すグループがあったとする。その被支配階級であるグループはいじめっ子を共通の敵として団結するが、それはいじめっ子と同じ論理だ。


誰かが幸福を得る時、誰かが苦痛に喘いでいる。

そして得た幸福が苦痛に勝ることはない。

共通の敵というアジテーションに乗ったところで、幸福が苦痛に勝る事はないという視点に立ち、この社会が、誰かの不幸は誰かの幸福、を体現しているのなら、自分は、最大幸福追求のような、今も、おそらくこれからも見られるであろう株主至上主義的な、負の功利主義の輪廻から、私は解脱したいと考えている。

共通の敵、最大幸福追求だとか、真実だとかいう思考放棄を放棄して、個々人が自律的に思考する社会を望む。

幸福の絶対量が規定されているのなら、幸福を皆で奪い合うことになる。絶対量を増やすことはできない。


現代は幸福の奪い合い。


シオラン流のユートピアは、怠惰で衰弱した人間に溢れた世界だった。

シオランは言った。

『栄光は盗みである』

怠惰な人間で溢れれば、誰かの栄光を奪うことも、誰かを傷付けることもない。


また、衰弱した人間で溢れれば、自由が手に入るとも言った。


誰もが衰弱し、他人に向ける活力が無くなり、無関心で居られたなら、人間関係の煩わしさから開放され、自由になるということだ。


ツイッターや、表面的な政治的闘争はその対局にある。


しかし、そのユートピアが実現することはない。


誰もが外へ出るし、仕事をして他人の富を奪わなければならないし、人間関係の渦中へ飛び込まなければならない。


そこでシオランは、人生から解放される術を模索した。


シオランは言った。

『自殺とは、暴力的に成し遂げられたニルヴァーナである』


しかしシオランは著書で自殺を推奨しながらも、自らは自殺しなかったし、自殺願望のある人に自殺を勧めなかった。

輪廻転生の観念が根底にあり、苦痛に塗れた人生は死んでも繰り返されると考えていたからだ。


つまり、自殺では人生から解放されないので、自殺を推奨しなかったということだ。


シオランの人生から解放される方法とは、生きたまま死者になる、解脱であり、死者のような無の状態になることで、欲望や感情、執着、苦しみや迷いから解放され、生と死を乗り越える事だと説かれている。


だが解脱に至る具体的な方法は述べられておらず、シオラン自身も解脱には至らなかったという。


生きることにも死ぬことにも解放されず、苦しみから解放される術はないと悟ったシオランは、世界を悲観的に捉え、苦しみを育み、楽しみ、愛する、悲観主義こそが、人生の役に立つと結論したが、その悲観主義の具体的な方法が明かされることはなかった。

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