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創作物はどこまで道徳的に”正しく”あるべきか

先週公開された『ゴールデンカムイ』の最終話を読んで以来、作品を巡る賛否両論の意見を眺めつつ、果たして創作物とはどこまで道徳的に正しくないといけないのか、ということを考えていました。


最終章はちょっとバタバタと終わってしまった印象で、ビール工場あたりまでが一番面白かったなあと思いますが、それでもやっぱり好きな作品です。今まで漫画に許されてきた表現やテンプレートに対する批判精神があり、しかも真っ向から批判するのではなく、笑いの中にアンチテーゼがあるところに作者はとても冴えている人だなと思いました。


だからTwitterを見ながら、ここまで批判されるんだな、とちょっと意外に感じていました。イマドキここまで”正しく”あることを求められるのか。歴史に正しく、事実に正しく、道徳的に正しく。ある意味民度が上がったと言えるし、同時に正しさの押し付けのような、怖さも感じます。

批判のなかで特に気になったのが、「道徳的に正しくない登場人物が作中にいる場合、その人物の思想や行動が作中で否定されなければ、その作品は道徳的に正しくない思想を助長するものである」という考え方。

フィクションだからこそ、現実にはできないこと、現実では道徳的に許されないことを超えたその先にあるものを見せられるというのが創作の意義の一つではないでしょうか。想像力を広げたり、今まで見えていなかった世界を見たり、問うたこともなかった問題について頭を悩ませてくれるのが創作物の面白いところだと思います。
道徳的に正しいことを伝えることだけが創作物の意義になってしまうとすごく退屈な世界になりそう。それに行きすぎるとアイロニーやギャグすら抹殺されてしまうのではとちょっと心配になりました。


フィクションはフィクションだけど、そこには社会へ与える影響力が確かにある。だからこそ大人気コンテンツには社会的な責任が生まれるのだと言われればそうかも知れない。


でも創作物は道徳的に正しくないといけないのでしょうか?

作品の中で道徳的に正しくない登場人物がいたからといってそれが作者の道徳観を表しているとは限りません。間違ったことを見せることで、これは正しいのか?と考えさせることもできる。もちろん作者自身が道徳的に正しくないなもしれないし、究極的にはそれもまた良いのでは?

これが正しいですよ、という答えを提示するのも一つの表現だけど、答えの出せない問題を提起することも大事なフィクションの効用だと思います。

それに何が正しくて何が間違っているのでしょうか。

果たして自分が正しいと思っていることが本当に正しいことなのか?私は10年後も同じことを正しいと思っているのか?10年前も同じように考えていたのか?

道徳的な正しさの基準は常に変わるもの。だからこそ今現時点での正しさだけを押し付けることには疑問を感じます。
今は事実と呼ばれていることだって、歴史の解釈だって、変わるもの。

少しでも間違っているところを見つけたら叩くというのは興味深い傾向だなあとインターネットの世界を眺めていて思います。ネガティブな指摘をする方が勝ち、という空気すら感じます。
間違ってはいけない、いつでも正しいことを言わないといけないというのは息苦しい。

正しさを追求するのは悪いことではないでしょう。私も自分が当事者であるような事柄については正論を投げつけがち。
例えば女性の描かれ方とか、アジア人の描かれ方については過敏になるし、「フィクションなんだしそういうのどうでもいいじゃん」とか「フェミニズムめんどくせー」とか「ポリコレばっかりでつまらない」と言われるとムッとします。大事なことなんだよ、フィクションには社会の中のムードやイメージを作る力があるからフィクションだと言って馬鹿にはできないんだよと思います。


ところが、例えば『ゴールデンカムイ』の中のアイヌの描き方については特に問題に感じることがありませんでした。むしろ今まで全然知らなかったアイヌの文化に興味を持つきっかけになりました。けれど見る人が見れば足りない部分がたくさんあると言います。批判を読むと自分にはなかった視点が与えられて勉強にもなるし、自分が当事者じゃないから見えてないことがあるんだなと気づくきっかけになりました。

しかしアイヌに関することだけでなく歴史の扱い方や帝国主義の描き方、最終話のオチについてなど、どんどんヒートアップしてゆく批判を読み続けると、本当にそこまで正しいことばっかり追い求めないといけないのか?そんなのなんだかつまんなくないか?と思ってきます。でもこれこそが「フェミニズムめんどくせー」って言っている人の気持ちなのかもしれませんね。


批判も正論も程度問題なのでしょう。だから議論が起きるのは良いことです。限られた文字数で顔の見えない人同士が責任のない言葉を投げつけ合うのが健全な議論だとは思わないけれど、いろんな意見が行き交う中でこそ、程度問題の”程度”の精度が社会の中で磨かれていくのだと思うからです。

とは言っても自分が好きな作品が滅多切りにされていると冷静に耳を傾けるのはなかなか難しいもの。「あなたの意見には反対だけど、あなたが意見を言う権利は守る」とは難しいけれど大事なことの核心をついた言葉だなと改めて思います。



『ゴールデンカムイ』に関するあれこれを読んだ後、気分転換にB級映画を見ているとなんだかホッとしました。

力学的にありえないことも、道徳やモラルや倫理観を吹っ飛ばしたような行動も、製作者の行き過ぎたこだわりも、なんでもありのB級作品。そこへいちいち「こんなことはありえないでしょ」とか「それは間違っているよ」なんてわざわざ言ってくる人はお門違いの野暮な人。だってB級なんだもん!と言える強さ、または免罪符。こういうためにB級という公に認められたカテゴリーがあったんだな。
如何せん世間の注目を集めることはないかも知れませんが、自由にいろんなことをできる楽しさがあるのが良いところだなとB級作品の存在意義を改めて感じました。そして意外とこういうところから、次の時代の新しい価値観が生まれてくるのかも知れません。


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