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海外に住んでみてよかったこと

長野へ引越してから毎日はじめての人と出会うので、自然と自己紹介をする機会が増えました。
フランスに住んでいたと言うと大抵、すごいね!と言ってもらえます。確かに私も、誰かから海外に住んでいたと言われたら、すごいね!と言っています。
でもどうしてすごいね!と言っちゃうのか。例えば、日本にいるのとは全く異なる体験をしたのだろうなと想像が広がるからでしょうか。

海外に住むのが本当にすごいことなのかどうかは置いといて、では実際に海外に住んで自分にとってなにが良かったかと、ここ数日考えていました。

7年間パリに住むことができて、面白いことも楽しいことも美味しいこともいっぱいあったけど、その中でも何がよかったかと考えると、「言葉の全く通じない国に暮らすこと」と「マイノリティになること」という経験が出来たこと、私の場合はこのふたつに集約されるように思います。


フランスに引越す前にもフランス語を勉強していましたが、とても生活を実践できるようなレベルではありませんでした。パリに着いた時はなんとか自分の名前を述べ「これをください」や「ありがとう」などと言えるくらいでした。

ところが語学学校へ行ってみるとクラスのみんなはどんどん喋る!これが同じレベルの生徒なのかと驚きました。
一方、私は日本語を通してフランス語を勉強していたから、”主語”とか”形容詞”とか文法用語のフランス語すら分からないし、単語も全く分かりません。なんの話をしているのか?とにかくさっぱりで、授業が始まった日は目を回しました。

学校と並行して、生活を始めるために、健康保険に加入したり、定期券を買ったり、滞在許可証を有効にする手続きがあったりと、一から十まで全てにおいて勝手が分からないことばかり。言葉が分からないと大切な情報もすり抜けていってしまいます。

毎日その日に必要な手続きを確認し、予め必要な単語を調べて書いてから臨みました。周りの子たちが何をしているのか常にアンテナを張り、どうしていいのか分からない時はなんとか困っていることを伝え助けを求めました。
とにかく毎日、普通の生活をするために必死。今までの”普通の生活”というのは日本にいて日本語ができるからこその”普通”だったのです。

言葉が分からないお陰で、こんなにも言語という存在に生活の全般を頼って生きていたのか!と心底驚くことができ、言葉の有り難さを身をもって理解することができました。

人とコミュニケーションが取れないのはもちろんのこと、情報が全く手に入らないのも困ったものです。当たり前のことが分からないのです。
それまでは日本語にも外国語にも取り立てて興味を持つことがなかったのですが、自分の経験を通して言語の凄みを実感できたことで、言葉というもの自体に惹かれるようにもなりました。

それから少しづついろんな国の友達ができてきて、ちょっとづつ会話ができるようになってきました。そんな時に改めて打ちのめされたのは、言いたいことがあるのにうまく伝えられないということ。思考も見た目も大人なのに、言葉は赤ちゃんであることのフラストレーション。
日本語で話していたって、伝わらない人には伝わらないもどかしさは味わっていましたが、外国語で言葉が出てこない時の自分に対する不甲斐なさ、居ても立っても居られないウズウズした心地はまた格別です。必死なのに漕いでも漕いでも進まない小舟のようで、気づいたらもうみんなは遠くへ進んでいるのです。
どうしても伝えたいが故のもどかしさと寂しさ。こういう気持ちを味わえたこと、本当によかったなあと感じます。


パリには日本人もたくさんいるし、外国人だって日本の非じゃないほどたくさんいます。それでもやっぱり、何年住んでも私は異国の人でマイノリティでした。初めのうちはそれが少し寂しく、しばらくするとそれは当たり前だと分かり、そのうちに面白いなと感じるようになりました。

マイノリティであるというのは、パリに住む日本人だからでもあるし、フランス語が母国語のように流暢に操れないということでもあります。ちょっとした身振りや手振り、外見、食生活、思考、文化、慣習、”当たり前”が全く異なることでもあります。でもそれが面白い。

マイノリティであることにはもちろんネガティブな面もあります。差別されることはあります。

日本にいたときは、私は圧倒的な多数派に属していたと思います。そして差別とはいけないものだと、当然のように思っていました。でもそれは多数派だからこその安心と傲慢で、実際には、なにが差別なのかさえもわかっていなかったと今ではわかります。

差別をされることなくなにが差別であるかを理解することは、とても難しいことです。”差別イコール悪いこと”というのは誰にでも分かる単純明快な方程式ですが、でもそんなに簡単なことではありませんでした。単純化してしまうと安心して、自分自身の中にある差別を見過ごしてしまいます。

フランスに住んで自分がマイノリティになる経験をしたことで、どうして差別をしてしまうのか、無知の怖さ、自分の中にも差別があること、そして「差別が存在することのどうしようもなさ」を考えることが出来たのが良い経験でした。
こう言っては元も子もないけれど、差別には仕方のない面がある。それを理解した上で、果たして自分には何ができるか、というふうに考え方が変わっていきました。



最近のニュースを見ていると、弱い立場に身を置く経験や自分の価値観を覆されるような経験の有無が非常に大切になってきているなと感じることが多々あります。自分の常識では理解のできないことだけど、でもだからと言ってそれが”悪”という訳ではない。そういうことを無理矢理にでも手っ取り早く学ばせてくれたのが、私にとっての海外生活だったかもしれません。

単純に外国に住んでいたからすごいとは思いませんが、振り返ってみると学びの多い時間を過ごすことが出来たなあと感じます。日本にいては実感することがなかっただろう経験もありました。暮らしてみるというのは、旅行で滞在するのとも全く異なる経験でした。

フランスから離れてみたことで、また違った視点で自分の経験を振り返ることができるような気がします。
経験の効用というのは即効性があるものだけでなく、じわじわと効果が現れるものもあるでしょう。副作用だってあるかもしれません。
これから日本で過ごす日々の中、パリで過ごした経験が自分の中でどのように熟成されて行くのか、それも楽しみの一つです。

いつかまた海外に住むこともあると思います。
それまでは日本でしかできない経験を満喫していきたいです。



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