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自分の人生を自分で決めるということ

わたしは、比較的自分のやりたいように生きてきたほうだと思う。
よくある言葉だと「他人の敷いたレール」に乗ってではなく、時には反対され、時には結果オーライだったり、時には後悔したり、まぁほとんど失敗しながらも大切な選択を自分でしてきたと思う。

それは、ただでさえ「人生の正解」がない中で、もし自分が何かに躓いたときに「あの人のせいだ」と思いたくなかったということが一番大きいかもしれない。
自分のせいにしてしまえば、自分で選んだことだから、自分で決めたことだからと納得できる。諦めがつく。
でも誰かに言われたことをそのまま実行して、それが失敗したら?
「自分で考えたほうが正しかったのではないか」なんて、とても不毛で悲しくて何のためにもならない気持ちが絶対に過ぎってしまうことを知っている。

だから、わたしは、分岐点が苦手だ。
与えられた選択肢が少なければ少ないほど良い。極端であればあるほど良い。考えなくて済むからだ。誰がどう見てもどちらが正解か分かるくらいが、いや、いろんな人に「どちらが正解だと思いますか?」と聞いたときに過半数が答えを決められるくらいに、分かりやすく正しいほうが楽だ。

それでもわたしは間違える。
100人いて99人が正しいという道を選んだ試しがない。それは良くも悪くもであって、そんな人生のことを根っから嫌いなわけでもない。
しかし、わたしはそもそも「正しさ」を求めて生きている。なるべく「正しく」ありたいと思っている。でもこの世界に「正しさ」なんてないから、ないものを求めたときに、ないんだから間違える。

ミカンとリンゴを目の前に差し出されて
あなたがモモだと思うほうの道を選びなさい
と、言われているみたいに。
どこにもモモなんてないじゃない。「ミカンの感触のほうがモモに近いからミカンを選んだ方がいい」とか、「リンゴの方が色味や形が似ているからリンゴにした方がいい」とか、そういうアドバイスを全て無下にしてモモを選んでしまう。

こんな言い方をしたら、なんだかわたしが、とても「正しい」人間みたいに自分で思ってるように思われるかもしれないけれど、それも違う。
間違っていることも分かっているつもりなのだ。
「どこにもモモがないから、モモの道を作ってそっちにいっちゃお」というのは究極の怠惰なのだ。

分岐点に立つとき。
何かに悩んだとき。
何を選んだらいいか分からないとき。
どうしたらいいか、何が「正しい」のか。

思えば、ずっと小さいときから誰にも何も相談をしたことがないなぁと、人の言うことを聞いたためしがないなぁと、「誰かに自分を任せたことがないなぁ」と、やっと気づいたのだ。

人のせいにしたくない、わたしがことごとく人のせいや環境のせいや時代のせいやありとあらゆる自分以外の要素に原因を求めてしまう愚かな人間だと分かっているからこそ、大切なことほど、自分で決めて失敗しなければいけないと思っている。思っていた。ついさっきまで、いや、今も心の半分は。

さっき部屋の掃除をして、お風呂に浸かって、ひとつ深呼吸をしたときに、唐突に、
「ああ、全ての選択を他人に任せてみようかな」
と、初めて思ったのだ。
初めてその選択をしようと考えた。どこまでいっても、わたしの意思で。

誰かに選択を任せたところで、それに従ったところで、その結果はその誰かのせいではない。その選択に乗ろうと決めた自分のせいだ。
だから、たまには間違うなら、違う間違え方をしてみても良いのではないかと思った。

どうせ、息絶えるときは一瞬で、
そのときがくるまでは暇つぶししかない人生。

数字をひとつ間違えて6億円を逃したって、他の数字がたまたま同じだっただけで元々自分のものではなかった6億だ。何も後悔することなどない。

すこしだけ、誰かから見えている、自分には見えないほうのわたしを、信じてみようかな、というひとりごと。

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