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父が亡くなる前の数日間を詳細に記録しておきたいと思った-後編

※後編です。前編はこちら↓

https://note.com/nanana126/n/n7929dd6f5f61

父の遺体は、3日間家に安置しました。がんと診断された10月からずっと口からご飯を食べていなかったので、父のために丁寧にお米をといで、ご飯を炊き、丁寧に味噌汁を作りました。生前使っていた布団に父を寝かせ、葬儀会社の方にまたメイクをしていただきました。余談なんですが、うちの父、若い頃は相当かっこよかったんですよ。それこそ女には困ってなくて、高校時代は平気で5股かけてたくらい。(これは事実。自慢げに話してくれた)写真によっては、関ジャニ∞の大倉忠義に似てるなって娘の私ながら思いました。そして親族たちにも「大倉に似てる!」って同じことを言われました。そんなかっこよかった父ですが、すっかり痩せてしまって、面影なんてもうなくて。でも、メイクをしていただいたお陰で再びかっこよくなりました。母は惚れ直したんじゃなかろうか。

そうそう、ここで一つラーメンの話。
父はラーメンが大好きでした。休みの日の度にラーメンを食べに行き、美味しかったお店はストックしておいて、次に私たち家族を連れていってくれました。父と2人で食事に行く時は、大体ラーメンでした。というかラーメン以外の食べ物を挙げると、大体却下されました。医師から、口から液体物以外を摂取しちゃダメ、と言われた日、父は私に「ラーメン食いてぇな」とニヤニヤしながら言ってきました。あ、このニヤニヤ顔は内緒で食べようとしてると思った私は、「喉に詰まるからダメ」と突っぱねました。でも後々可哀想になって、LINEで「ご飯食べられるようになったらラーメン奢るよ」って言ったんです。父にはめずらしく、ハートが飛んだスタンプで返してきました。

結局、父にラーメンを奢る約束は叶いませんでした。それが本当に心残りだったので、バーミヤンで1番高いラーメンを私の奢りでテイクアウトし、父に供えました。本当は、生きてる時に一緒に食べて、「美味しいね」って笑い合いたかったけど…。最後1個の餃子だって、いつものように「奈央食べろや」って譲ってもらいたかったけど…。父に供えたラーメンは、汁だけが減っていきました。お父さん、汁から飲んでるのかな。変な食べ方するね。笑 きっと「この期に及んでバーミヤンのラーメンかよ」って苦笑いしてると思います。向こうの世界には、ラーメンってあるのかな?再会したら、また一緒にラーメン食べようね。きっとこれから私は、ラーメンを見る度に食べる度に父のことを思い出すでしょう。もしこれから先私とラーメンを食べに行くようなことがあったら、いきなり泣き出すかもしれません。そっと泣かせておいていただけると助かります。

話が少し逸れますが、ラーメン繋がりでここでアイスの話も記録しておこうと思います。最後に家族4人で食べた食べ物は、森永のピノでした。あの赤と白のパッケージに、一口サイズのアイスが6個入ってるやつです。たまに星型とかハート型がでてくるやつ。亡くなる数日前、最後に何か味の付いたものを食べさせてあげられないか医師に相談したところ、口の中で溶けるアイスを少量なら可能と言われました。すぐ売店に走り、父のピノと母と妹と私の分、計4つのアイスを買いました。少し溶かして喉に詰まらない程度にしたピノを父に食べさせました。父にとって久しぶりの味の付いた食べ物。「美味しい?」と聞いたら朦朧とする意識の中でうなづいたのは忘れられません。父はたった1つのピノしか食べなかったので、残ったピノは私たちが食べました。ラーメン同様、これから先私はきっとピノを見る度に父のことを思い出すでしょう。家族みんなで最後に食べたのが、ピノ。ピノは少なくとも私の中で、沢山の想いが詰まったアイスなんです。

話がだいぶ逸れてしまいました。戻します。
父を3日間家に安置し、たくさんの方が弔問に訪れ、様々な手続きをこなしていくうちに、あっという間にお通夜とお葬式の日がきました。

私の地域では、家から出棺→お通夜→葬儀・告別式→火葬というのが一般的な流れです。

納棺の際、父の棺に父の愛用していた物と、父の洋服と、大好きなお酒と、おつまみと、おにぎり等を詰めました。おにぎりは、母と妹と私で1つずつ握りました。生前ご飯が食べられなかった分、せめて向こうの世界でお腹いっぱい食べられるように…。大好きだったお酒を、ベロベロになるまで呑めるように…。たくさん詰めました。

家から出棺する時の挨拶と、お通夜の挨拶は、私がしたんです。本来は喪主挨拶で、母がやるのが常ですが。親族代表挨拶ということにして、私がしました。人前で話すことは全く苦ではなく、寧ろ好きなので、喜んでやりました。もちろん、文も全部自分で考えました。父からよく「奈央は話すのが早い」と注意を受けていたのですが、本番はやっぱり少し緊張して早くなっちゃいました。きっと父は良い顔をしていないでしょう。

お通夜の日、びっくりするくらい大勢の人が来てくださいました。私の友人もたくさん訪れ、みんな父のために静かに手を合わせてくださいました。

普段家で過ごしていた時の父は、とても寡黙で、(寡黙というより、母と妹と私の女3人でキャーキャー盛り上がっていたから話に入って来れなかっただけかも?)多くを語ることのない父でした。弔問に訪れて下さった沢山の方々から、生前の父の職場でのエピソードを聞いたのですが、私の知ってる父の姿とは全く違う父がそこにいました。「お父さんって、そんな人だったんだ…」というのが、正直な感想です。もちろん良い意味で。職場では課長という立場だったのですが、適度にいじられキャラで、適度に威厳があって、仕事には真面目に取り組んで、たまには部下にお酒も奢ってたらしいです。そんなエピソード始めて聞きました。

お通夜の夜は、葬儀会場に併設された宿泊部屋に妹と私が泊まりました。母も泊まりたがっていたけど、家のことをしなければなので、母だけ帰りました。コンビニでお酒とおつまみを買い込み、父の遺体の隣で呑みました。父は相当お酒に強く、母もそれを凌ぐ勢いで強いのです。そんな酒豪夫妻の元に産まれた私も当然強く、いつも父は「もう少し大人になったら一緒に呑みかわしてぇな~」なんて言ってました。ラーメン同様、生きてる時に一緒に呑みたかったけど…。呑みながら人生のアドバイスとかもらってみたかったけど…。父は「いつか呑もう」なんて言ってたけど、保証のある「いつか」なんて本当にないんだな、と思いました。

本当は一緒に呑みたかった。
お父さんが好きだった柿ピーとサラミ買ったよ↓

お葬式の日も、前日のお通夜ほどではないですが、それでも大勢の方がいらしてくださいました。中には、最後に棺にお花を入れるところまで残ってくださった方もいて、胸がいっぱいでした。

父の棺がお酒やお菓子や洋服や花で満たされ、直接顔を見てお別れする最後の瞬間、私は父にこう言いました。

「お父さん、今まで本当にありがとう。お父さんがいなくなって悲しいけど、でも私は今誇らしいよ。こんなに沢山の方が弔問に訪れて、みんなお父さんのために手を合わせてくれて、私の知らないお父さんのエピソードを話してくれる。こんなに沢山の人に慕われてたなんて、知らなかったよ。娘の私が言うのも変だけど、お父さん、いい人生だったね」と。

この時、初めて泣きました。でも、悲しい気持ちもあったけど、「うちのお父さんスゴいでしょ」って誇らしい気持ちの方が上だったんですね。私もお父さんのように、人を大切にしよう、真っ直ぐに生きよう、って誓いました。

いよいよ火葬の時。およそ1200℃の炎で焼かれた父は、真っ白な骨となって出てきました。看護師をしている親族の1人が、「ずっしり重くて、りっぱな骨だ」と言っていました。骨粗鬆症等の骨の病気を患っていた方の骨は、脆くて掴むことすら難しいそう。しっかりとした父の骨は、今まで大病を経験したことのない父の丈夫さを物語っていました。遺骨を全て骨壷に詰めて、親族に見送られて、無事に父とのお別れに幕を閉じたのでした。

父の遺骨は、四十九日法要まで私の家に安置していました。毎日お線香をあげて、今日のスケジュールを報告しています。生前ご飯が食べられなかった分、毎日その日の夕飯を取り分けて供えています。

遺された私たちは、今はいろいろな手続きに奔走しています。家主が亡くなるとは大変なことで、公共料金の支払いやら携帯の支払いやら保険金の請求やら職場の手続きやら年金の手続きやら、何から何まで書類を書いて提出して手続きをしないといけません。「終活」ってよく聞くけど、本当に本当に大事なことなんだ…と現在就活中ながら実感しています。もしこれを読んでいる方の中で、身近な人の命がもう長くないとわかっている方がいるなら、大事なことはきちんと話しておくべきだと言いたいです。話しづらいことではあるけど、これは本当に。じゃないと、遺された方がめっちゃくちゃ大変です。いろいろな手続きの最中、何度亡き父に向かってキレたことか…。

父は、寡黙で多くを語らなかったけど、家族のことは愛していました。(たぶん…)私がどんなお願い事をしても、ひとつも首を横に振ったりはしませんでした。私がここに行きたいと行ったらどんなに遠くても連れて行ってくれました。私がやりたいと言ったことは、母は反対しても父は背中を押してくれました。もう成人しているのに、帰りが遅くなると口煩く心配してきました。口癖は、「さすが奈央、お父さんの娘だ」でした。

いつもそばにいるのが当たり前だったから、「ありがとう」なんて改めて伝えたことがありませんでした。でも、今それを後悔しています。なんでもっと「ありがとう」って言わなかったんだろうと。なんでもっとお父さんとの時間を大切にしなかったんだろうと。お父さんが私と出掛けたいって言った時、なんでレポートを理由にして断ったんだろうと。当たり前だけど、親って永遠に生きているわけじゃないんですね。馬鹿なことを思っているのは承知の上ですが、なんとなく、私が結婚して子供を産んで、その子供が成人するくらいまで生きてるものだと思ってたんです。

でも、どれだけ過去を悔やんでも、もう父は帰ってきません。もう声を聞くことも、褒めてもらうことも、怒ってもらうことも叶いません。でも、また数十年経って、私が亡くなって向こうの世界に行ったら。その時に、絶対また会えると思ってるんです。また再会したときに、父に誇れる自分であろうと思っています。真っ直ぐに生きた父の長女として、私も父のような人になります。遺された私たちが立派に生きていかないと、きっと父は悲しむから。いつか来る再会の日を信じて、私は私らしく生きます。これは、父との最後の約束です。

父の遺骨の一部は、小瓶に入れて私たち姉妹が持っています。上の世代の方だと、分骨は故人が成仏できないからダメだ、なんて言う人もいるけど。いいんです、遺族の意向で。私たちは父の形見という形見がないので、せめて遺骨だけは少しばかり手元に置いておきたかったのです。あんなに大きかった父は、今は骨となって小さな小瓶に収まるサイズになってしまいました。だけど、こうして目の前に置いてあると常に父が傍にいる感覚になれます。(やばい、もう変な事できない…)

お父さん、21年間ありがとう。
お父さんの娘で幸せでした。「奈央」という素敵な名前を付けてくれてありがとう。私がそっちに行ったら、絶対また父娘になろうね。お父さん、大好きだよ。

追伸:私は虫が世界で一番苦手なので、お願いだから家に帰ってくる際は虫として出てこないでね。これは本気のお願いです。

こんなに長いnoteをここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

Nao

↑入院中、最後に繋いだ手(2020.02.28撮影)


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