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父が亡くなる前の数日間を詳細に記録しておきたいと思った-前編

こんにちは、Naoです。

2020年3月7日、父をがんで亡くしました。
享年64歳でした。

この記事は、父が無くなった数週間を私のために記録したものです。とんでもなく長いnoteになりましたが、自分のために記録しようと思って書いています。

父は食道がんでした。昨年10月に発見された時には既にステージ4だった食道がんは、胃に転移し、肝臓に転移し、リンパに転移し、父の体はがん細胞の巣窟でした。食道が狭まり口からご飯を食べれなくなり、声帯が壊れ声を全く出すことができなくなり、腰にできたがんのしこりが周辺の骨を圧迫したせいで寝たきりなのに骨折し、薬の影響で腸閉塞をおこし、肺炎をおこし、その他にも多くの合併症をおこしてしまった約5ヶ月間の闘病でした。

昨年10月に医師からがんだと宣告されたときは、「本当にステージ4のがん患者?」ってくらいに元気で、こっちが拍子抜けするくらいでした。点滴引きながらスタスタ歩くし、病院のロビーのテレビで1人ラグビー観戦してるし。でも、胃ろうを造って(父は口からご飯が食べられず、チューブから胃ろうに直接流し込んでいました)抗がん剤治療を始めてからは、ただただ弱ってやせ細っていく一方でした。

格段に状況が悪くなったのは、2月の半ばくらいから。個室に移動になり、特別面会許可証を発行してもらって、家族は特別にいつでも面会ができる状況でした。痛みを極力抑える緩和ケアのため、強い薬を投与された影響で、1日の大半を寝て過ごす状況でした。そんな中でも、がんに勝とう、生きようとしている父の姿は伝わってきました。聞くところによると、看護師さんに「今ここでがんに負ける訳にはいかない。娘2人だってまだまだこれからだから、さっさと治して退院しないと」ってずっと言っていたらしいです。

だけど、がんって非情なものですね。
2月26日から、容態が更に悪化しました。その日、私は企業の筆記試験があり、病院には行かない予定でした。しかし、筆記試験が終わってスマホを確認したら、母からメッセージが。

正直疲れていたけど、「ああ、これは行かないとやばいな」って思って、行きました。病室の扉を開けるのにも勇気がいりました。現実から目を背けるわけではないけど、父の現状を見てしまったら、いよいよ「死」という文字がよぎってしまいそうで、怖くて。勇気を出して扉を開けたら、酸素マスクなしには息もできなさそうで、呼び掛けにも反応するのがやっとな父がいました。でもそれ以上に、母が疲れたような、泣きそうなような、なんとも言えない顔をしていたのが辛かったです。お父さんに、(届いているかわからないけど)試験の結果を報告するとともに、母のことは任せてねって心の中で誓いました。

その日から、母は会社を休み、妹も学校を休み、10日間ほどにわたる病院生活が始まりました。

病院の付き添い用簡易ベッドは硬いし、定期的に看護師さんがくるから寝れないし、こんな環境にずっと母だけを泊めさせていたら母が倒れる!と思い、交互に泊まることにしました。正直この時、言い方は悪いけど、これから死にゆく父の身体よりも、これからも生き抜いていかなければいけない母の身体を大切にしなければ、いよいよ一家総倒れする…と思ってたので、何よりも母のサポートを第一に考えてました。父、ごめん。私は大丈夫だから病院に泊まり続けると渋る母を説得し、家に帰らせました。妹も泊まりたがっていたけど、未成年の方は御遠慮くださいと言われたので断念。

この日から病院生活が始まるわけですが、亡くなる1日前まで同じような状況(酸素マスク・意識朦朧・一日ほぼ寝て過ごすetc...)が続くので、ここは端折ります。

強いて記録するなら、私が始めて泊まった日、父の手にミトンをつけて貰いました。というのも、前日泊まった母から、「夜な夜な無意識に酸素マスクを外してしまって、付け直すのが大変だった」と話を聞いたから。物理的にもう取れないように、ミトンを付けてもらうよう看護師さんにお願いしました。私は医療従事者でも医療系の学問を専攻しているわけでもないので、全くの無知だったのですが、ミトンって患者の意思に反する身体拘束にあたるんですね。身体拘束同意書を書かないといけませんでした。軽い気持ちでミトンをお願いしましたが、同意書の「身体拘束」という文字を見た瞬間、「お父さんごめんね、酸素マスクなんかしたくないよね、なのに取れなくしちゃってごめんね…」と泣きそうになりました。でもミトンをしなければ取ってしまうわけだし、仕方がない…。ごめんね、ごめんねって何度も謝りながら同意書にサインをしました。

その時に母に送ったLINE↓

2月26日~3月5日(亡くなる2日前)までは上記したようにずっと酸素マスクを付けていました。強い薬(モルヒネかな、たぶん)の影響で意識は朦朧としていて、呼び掛けたり刺激を与えたりしたら微かに反応する程度でした。39℃から40℃近くの高熱が続き、現実の世界と夢の世界が混ざってるようでした。実際に、看護師さんのことを自分の職場の同僚と勘違いしたのか、自分の仕事の話を看護師さんに説明しようとしてたり、無意味に手をヒラヒラさせたり、意味不明な行動が多かったです。

3月6日、亡くなる1日前、私は所用で東京にいました。中目黒に用事があったのですが、中目黒駅に着いた瞬間、妹からLINEと電話が。「お父さん、もういよいよやばいかもしれない。お姉ちゃんは帰ってきても帰ってこなくてもどっちでもいいってお母さんが言ってる」と。こういう、最終判断を私に任せる、母の悪い癖。素直に「帰ってきて」と言われたら真っ先に帰るのに…と思いつつ、そのまま電車に乗りました。2時間半かけて中目黒まで行き、滞在時間6分でまた2時間半かけて帰る…という。この時の電車賃とガソリン代は、いつか父に再会したらきっちり払ってもらいます。

東京から山梨に戻り、高速道路をすっ飛ばして病院に向かいました。私高速道路を運転するのって苦手なんですが、火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、115kmで飛ばしてました。(制限速度は80km)後で聞いた話ですが、高速って結構覆面パトカーいるらしいですね。運悪く覆面パトカーがいたら、危うく捕まるところでした…。

病院に着いたけど、もう父の意識レベルは下がりきってました。ついこの間までは多少の反応を見せたのに、呼びかけても軽く叩いても寝てるだけでした。酸素が上手く体内に取り込めず、チアノーゼをおこして指先が青紫でした。辛うじて心臓は動いているけど、それさえもいつ止まるかわからない状況でした。私たち家族だけでなく、親族もみんな集まって、父を取り囲んでいました。

今日か明日がきっとヤマだけど、さすがにこんな大人数は宿泊できないので…。親族は夜になったらみんな帰り、私と妹も9時頃に家に帰ることを決め、母が泊まることになりました。

3月7日、亡くなったその日、朝早くに母から電話がありました。「状況は昨日と変わらずだけど、確実に心拍が弱まってきているから出来るだけ早く来て欲しい」とのことでした。家の掃除をし、支度を済ませ、家を出ようとしたのが10時45分。その瞬間、また電話が鳴りました。嫌な予感がしました。電話に出ると、母は既に泣き崩れていました。一刻も早く来て、それだけを言い残して電話は切れました。

こういう時に変に冷静になってしまうのが、私の良い所であり悪い所だと思っています。よく言えば、臨機応変。悪く言えば、無情。妹に早く車に乗るよう促し、ひとまず病院に向かって発進させました。道中、もう一度母に電話しました。(ハンドルに装着したマイクを介したハンズフリー通話なので、違反はしてません)「辛いだろうけど、きちんと状況を整理して教えてほしい」とお願いしました。母からは、「もう心臓が止まってしまった、今は手を握っているけど、心臓はもう動き出さないと思う。とにかく早く来て欲しい」と言い、大泣きしていました。私も正直怖かったけど、ここでもし取り乱して事故でも起こしたら母を支える人がいなくなる、その一心で病院に急ぎました。

病院に着き扉を開けると、心臓が止まり、静かに横たわる父と、目を真っ赤にした母がいました。私と妹は、父の最期に間に合いませんでした。父の心臓がもう動いていないことを、一定のスピードの機械音が告げていました。父の手を握ると、まだほんのり温かかったのを覚えています。いつもは私が手を握るとギュッと握り返してくるのに、もう握り返してはきませんでした。そこでやっと、「あぁ、死んだんだ」と思いました。

ここでまた変に冷静になる私。
父の会社の人や、親族に亡くなったことを伝えなければ、と思いました。本来ならばそれは母の役目ですが、母は「がん」だとか「死んだ」だとか、改めて説明をすると、自分の心に深く言葉が突き刺さるのかいつも泣いて話せなくなってしまうので…。私が母のスマホを借りて、連絡しました。一つだけわかったことは、私は人が死んだ時は変に冷静になってしまうこと。実際に、父が亡くなってから涙を流したのは、葬式で最期の別れを告げた時だけです。非情な娘ですまぬ、父よ。寧ろ冷静な娘だと褒めてほしい。

続々と親族が集まり、一通り集まったところで医師から死亡宣告を受けました。「ご覧の通り、自力では呼吸をしていません。心臓も動いてはいません。瞳孔は散大し、光にも反射しません。残念ですが、お亡くなりになられました」みたいなことを言われたと思います。そこから、私たちは別室に移動になり、看護師さんがエンゼルケアをしてくださいました。身体を綺麗に拭き、髭を剃り、メイクもしていただき…。父の身体を綺麗にしてくださいました。

綺麗になった父と対面し、荷物をまとめ、葬儀会社の方が到着し、父の遺体を運び、私たちも帰路に着きました。

※後編に続きます。

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