見出し画像

何度心を失ったって、"わたし本位" で生きていく。



人生で2度目の過呼吸になって、はじめて自分がこんなにもぎりぎりのところまできていたんだということを知った。


これは、つい2週間前のこと。


あの夜、わたしは "過呼吸" という状態になるまで、自分の心の状態に全く気づいていなかった。


むしろ「最近はうまくいっているなあ」なんて悠長なことを考えながら日々を過ごしていた。


夜眠りにつく前に、今日は少し疲れているなと感じることはあったけれど、年が明けてからは毎日そんな状態が続いていたから、感覚が麻痺していたのかもしれない。


わたしは、自分がこんなにも追い詰められていたということを、身体が緊急事態になって、はじめて知ることになったのだ。




***




きっかけは、恋人と食事を終えてお店を出た後、ふいに「ごめんね」と言われたことだった。


ホワイトデーの前々日。彼が予約してくれたのは、前から行ってみたかった都立大学のビストロ。わたしたちはお店の料理を堪能して、幸せな気持ちで帰路に着くはずだった。


たしかに今思えば、その日は朝から身体が重くて、心もなんだか晴れずにもやもやしていた。だけど彼と一緒にいると疲れや悩みが吹き飛んでしまうから、特に気にせずに過ごしていた。


「ゆっくり寝たら、回復するだろう」くらいの、軽い気持ちでいたのだ。


けれど日が暮れて、ある話題に差し掛かった時から雲行きが怪しくなった。わたしの心はどんどん不安な感情の方へ引っ張られてしまい、メインのお肉料理が出される頃にはほとんど泣きそうになっていた。


「ごめん、本当はななみも疲れてたのに、今日一日、俺ばっかり喋ってた。それに、さっきは嫌な気分にさせてしまったよね。」


彼はこちらをまっすぐに向いて謝ってくれた。わたしは「そうじゃない」と言いたかった。「あなたは悪くない、今は少し落ち込んでいるだけだから」と否定したかった。だけど、出てきたのは言葉ではなく涙だった。


一度涙が溢れてしまってからは、抑えることができなかった。彼の家に帰るまでの約30分間、わたしは静かに涙を流すだけで、言葉を発することができなかった。


帰宅した直後、彼に「今、どんなことを感じているのか聞かせてほしい」と言われ、ぽつりぽつりと言葉を絞り出していたとき、突然身体の中で何かが破裂した。その瞬間、わたしは呼吸ができなくなった。


空回りする呼吸の音を聞きながら、まるで自分は壊れたおもちゃみたいだなあと、やけに冷静に思っていた。






30分から、1時間くらいだろうか。


わたしは布団の上でただ涙を流しながら、呼吸の仕方を思い出すことだけに集中させられていた。


その間彼は、ずっとわたしの隣で「落ち着いて」「そう、深く呼吸して」と繰り返した。枕元に置いたスマホからは、わたしを落ち着かせるためか、川のせせらぎのような音が聞こえる。


その他の記憶は、ほとんどない。本当に突発的な出来事だったなあと、つい2週間前に起きたことなのに、夢の中のできごとみたいに曖昧だ。


だけどその夜、わたしは自分が思っていた以上に、何かに追い詰められていたということを自覚した。






わたしは一体、何に追い詰められていたのだろう。
翌日、ひとりになって自分の心に問うてみた。


以前同じような状態に陥ったのは、新卒一年目の冬。仕事で失敗して、上司に電話で原因を問い詰められていたときのことだった。


その失敗自体は大ごとではなかったものの、質問に答えているうちに深い罪悪感と自己嫌悪に苛まれ、涙と共に呼吸のコントロールができなくなってしまった。夏頃から半年間、精神的にとても参っていたから、それもあったのだと思う。


けれど今回は、そういう明確な理由が見当たらない。


仕事で失敗をしたり怒られたりすることなんてほとんどないし、むしろやりがいのある仕事を任せてもらっている。ありがたいことに家族関係もわりと良好だし、支えになってくれる恋人もいる。慢性的な寝不足ではあるものの、健康状態もあの頃と比べると良すぎるくらいだ。


それなのに、どうして。



考えた先で見つけた答えは、「心を押し殺し続けていたこと」そしてそれを「ひとりで抱え込みすぎたこと」だった。


一度それに気づくと、思い当たることはいくつもあった。


年が明けてから、日々の業務量の多さには拍車がかかっていた。心身ともに疲れ果てながらも、愚痴を言うことなく、笑顔で、さも当たり前かのようにこなしている、ふりをしていた。


チームの目標達成のため、みんなのためにと身を削って、休日も仕事優先で「やるべきこと」に取り組み続けてきた。けれど時間は有限で、わたしという人間は一人だから、どうしても綻びが出ることがある。


その結果、関わってくれている人の気持ちを損ね、すべて自分が悪いのだと低姿勢で謝り続ける朝もあった。


それでも誰かに感謝されることはなく、足りないところを指摘をされ、自分の欠点ばかり突きつけられる日々。


平日、仕事が終わった後は毎日ビジネススクールの課題や勉強会があって、好きなことをする体力もなくなってしまう。わたしに期待をして与えてもらった貴重な機会だったから、きちんと成果を残さないといけない。だけど、自分の感性とは真逆のことを求められる環境で、優秀な成績を残すのは簡単じゃない。


苦手分野だから、毎晩遅くまで勉強をしても、毎回出る評価は周りから期待されているような高いものではない。「期待に応えられない、どうしよう…」と強い不安に駆られ、涙を流しながら眠りにつく夜。


それでも諦めず、最大限の努力を続けてきた。


仕事に影響が出るなんてもっての外だし、普段関わっている学生たちに「社会人って大変そう」「仕事って辛そう」なんて思ってほしくはないから、せめて彼らの前では、楽しそうに働いている自分でいたい。


そんなプライドと強がりで、がんじがらめになっていた。






本当は、けっこう苦しかったのだと思う。


いつも仕事の愚痴をさらりと呟く先輩みたいに、わたしも仕事量の多さや忙しさに、冗談めかして文句を言って、気持ちを軽くしていたら。


自分ばかりが低姿勢で感謝を伝え続けるのではなくて、一言でもいいから誰かに必要だと言ってもらっていたら。せめて同じ目線で「一緒に頑張ろう」と言ってくれる人がいたら。


笑顔の裏で何度も涙を流していること、苦しんでいること、もがいていることを、誰かに知ってもらえていたら。


好きなことを我慢して、自分の心を殺してまで、周りから求められる能力を必死に身につけようとしていることを、少しでも「頑張ってるね」と言って認めてもらえていたら。


なにより、自分がそう思っていることを、少しでもいいから誰かに話していたら。


「あのとき、こうしていたら」と、もしもを想像してみるけれど、わたしはきっと、過去に戻ってもどれもできなかっただろう。それは周りの環境ではなく、自分の性格が理由だった。


家族にも恋人にも友人にも頼ることができずに、一人で抱え込んでいた。そして言葉や感情を飲み込み続けたことで、わたしの心はおかしくなった。


自分の置かれている状況が、どれほど苦しいものなのか。本当は言葉にしたかった。だけど、それをするのには勇気もエネルギーも必要で、わたしにはどちらもなかった。


愚痴なんて言わないで、笑顔でやり抜くんだ。努力の過程なんて、人に話しても「結果がすべて」と言われてしまうから、結果を出すしかないんだ。


そんな呪いをかけていたのは、紛れもなく自分自身だった。









数日後、わたしは急に冷静になって思った。


自分はどうしてこんなに苦しんでいるのだろう?こんなに頑張っていて、好きなこともやりたいこともたくさんあって、人生の時間が足りないくらいなのに、どうして苦しむことに時間を費やしているのだろう?


そう思ったら、数日前に過呼吸になるほど苦しんでいた自分が、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてきた。


自分を押し殺したって誰も喜ばないし、感謝もしてくれない。それなのに、自分は「誰かのために」と自分を犠牲にして努力して、不幸になって。そんなことでは、なんのために生きているのかわからないじゃないか。


無意識に「頑張るために、心を押し殺す」魔法をかけていた自分に、呆れてしまう。わたしはもっと、自分本位になってもいいのかもしれない。ならないと、だめだ。


そんな考えに至って、この2ヶ月半、自分はしばらく思考停止になっていたんだなあと思った。


我慢すること、無理に努力を続けること。それが無意識のうちに身体に染み付き、習慣になり、心の声が全く聞こえなくなってしまった。


うっすらと層になる埃のように、日々積もっていく疲れに、気づくことができなかった。それすらも、当たり前になっていたから。



そんな人生、わたしの人生じゃない。



頑張るのは、諦められないのは、誰かの期待に応えたいと思うのは、自分の性格だから仕方ない。だけど、それだけで埋め尽くされるような人生は、絶対に嫌だ。






それからというもの、わたしは「自分本位計画」と名づけて、小さな取り組みを始めた。


仕事と課題だけで一日が終わってしまった翌日は、絶対に早く仕事を切り上げて、好きな小説を読む時間に充てる。


疲れたなと思ったときは、無理に笑顔をつくらずに真顔で対応する (マスクをしていたら意外と気づかれない…と、自分で思うことが大事)。


打ち合わせでスケジュールが埋め尽くされる前に、自分のための思考や作業の時間を2週間先くらいまでブロックしておく。ついでに楽しみにしている予定も、こっそり書いておく。


誰かの期待やプレッシャーから、自分でなくてもいいお願いごとを引き受けることはしない。心は痛むけれど、しばらく無言で様子をみる。


そして何より、自分の心を無視しない。
心の声を聞いてあげられるのは、自分しかいないから。


そんな小さな取り組みの積み重ねで、少しずつだけど、わたしは回復に向かっているような気がする。







20代でいられるのも、あと2年と2ヶ月。


夢も希望も体力もある今のうちに、叶えたいことはたくさんある。


あなたはもう充分頑張ってきたし、もがいてきたし、苦しんできた。だからこれからは少しずつ、自分の心を縛っているものから、解放してあげてほしい。


また自分の心を失ったら、取り戻せばいい。
大丈夫。あなたは案外、強いから。



手放したり、取り戻したりを繰り返しながら、わたしは "わたし本位" で、生きていく。







いただいたサポートは、もっと色々な感情に出会うための、本や旅に使わせていただきます *