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「好きになる」の共通項は、「心の空白」なのかもしれない。


「恋愛感情としてわたしが好きになる人の共通点って、なんだろう?」

ここしばらく、わたしはこんな疑問を頭の中で燻らせていた。

今日、こんなnoteを書いてみようと思い立ったのは、少しだけその「答え」に近づいた気がしたからだ。

まだ完全な答えにはたどり着いていないのだけど、少しだけ心がすっと軽くなったので、今、ここに小さな気づきを書き留めておこうと思う。



「恋愛感情として」好きになる人の定義って?


わたしが「恋愛感情として」好きになる人の共通点を言語化すると、それはおそらく「自分が安心して甘えられる、頼れる人」だ。

この「安心して甘えられる人」という表現をもう少し具体化しようと思った時、自分にとって一番しっくりきたのは、「主導権を握ってくれる人」という定義だった。

これはデートのような場面を想像したらわかりやすいのだけど、何日に会うか、どこに行くか、何を食べるか…そういった細かな「決めるべきこと」を、主体的に提案してくれる人。

「自分が物事を主体となって進めよう」という意欲というか、姿勢のようなものが感じられる人が、わたしにとっての「主導権を握ってくれる人」だ。

反対に、わたしが「恋愛感情として」好きになることがない人は、「主導権をこちらに任せてくる人」。

これは、表現は少し悪いのだけど、「主導権を握ってくれる人」は「自分よりも上の立場にいる人」で、「主導権を任せてくる人」は「自分よりも下の立場にいる人」(と、少なくとも自分は感じている)と言える。



どうして「主導権を任せてくる人」を好きになれないのか


どうしてわたしは、相手が「自分より下の立場にいる」と感じると、恋愛感情を抱くことがないのか。

それはたぶん、相手と接している時、自分が「仕事モード」に切り替わってしまうからなんじゃないかなと思う。

相手が主導権をこちらに任せてくるようなタイプだと、わたしは決まって何かとお世話したくなってしまう。

正確に言うと、「お世話したくなる」というより、「お世話してしまう」。ほとんど義務感に近いそれは、大抵母性をくすぐられるような人を目の前にすると、発動する。


その時わたしは、相手に対して「人として自分をよく見せよう」「この人のために頑張ろう」と仕事モードに切り替わって振る舞ってしまって、気づくと疲れている、ということが多々ある。

デートの日どりからその日に行く場所、お店の候補出し、そして予約。それら全てを完了して初めて、「あ、今わたし、疲れているな」と気づく。

自分で自分の、首を絞めて苦しくなっていることがようやく分かるのだ。

この時の疲労感は、仕事で「期待値を上げすぎて自分の首を絞め、仕事が終わった後にどっとくる」疲労感と、全く同じ種類のものだと、最近ようやく気づいた。



一方で、「自分より上の立場にいる人」は、わたしにとっては「安心して頼ってもいい、仕事モードにならなくていい相手」だ。

出会った最初の段階で、「この人には、弱みを見せてもいいんだ」「自分が頑張らなくてもいいんだ」と感じると、その相手に一瞬で心を許し、場合によってはそれだけで好きになってしまうこともある。

自分が頑張らなくてもいい、安心して頼ることができる存在には、たぶん「この人は自分を守ってくれる人なんだ」という、安心感や幸福感を抱くのだと思う。そして単純なわたしの脳は、それを恋愛感情だと認識してしまうのかもしれない。



どうして「甘えられる安心感」を強く求めてしまうのか


わたしが男性に対して、「守ってくれる、甘えられる安心感」をどうしてここまで強く求めているのだろう、と考えてみると、やはり自分の価値観や性格の根底にある、父親の影響が大きいのだろうなと思う。

これは完全にわたしのイメージなのだけど、世の中の「お父さん」と言われる人たちは、あたたかくて優しくて、包み込むような愛情を注いでくれる、大きなひだまりみたいな存在、だと思っていた(今でも少し思っている)。

そんな妄想とも幻想とも言えるイメージを潜在的に持ち続けていたわたしは、おそらく自分の「お父さん」から、一切そういった愛情を感じた経験がなかったことで、いつしかそのぽっかり開いた空白を埋めるために、「安心感」を求めるようになったのかもしれないな、と思うのだ。


父親のことは、幼い頃から身の回りにいる大人の中で一番尊敬していたし、それは今でも変わらない。だけど、わたしにとっての彼は、あくまでも「一人の大人」であり、「甘えたり頼ったりできるお父さん」ではなかったのだ。

物心ついた時から、会話には常に緊張感があった。自分にも他人にも厳しい人だったということもあって、(共感して欲しい、などの)感情的に何かを相談することはもちろん、弱音を吐くなんてもっての外だった。

事務的に何かを聞いたり頼ったりすることはあっても、心の力を抜いて、感じるままに言葉を交わす、なんてことは、幼い頃のわたしの中ではあり得ないことだった。



これからは、心が本当に求めているものを与えていきたい


直接の利害関係がある人(職場の上司など)に対して、素を出すことができないのも、父親と同じように「畏怖」の方が大きくなりすぎてしまうからなんだろうな、と思う。

社会人になって、利害関係がない歳上の人と接する機会が増えてからは、「安心して甘えられる男性」がこの世に存在することを知ったからか、少しずつ自然体で振る舞えるようになってきているな、とは思うのだけど…

それでもまだまだ、会話をするだけで、緊張してしまう。(表情に出ないタイプなので、指摘されたことはあまりないのだけど、、気づかれていたら恥ずかしい。)


今までのわたしの恋愛は、自分が優位に立てる(畏怖の念を抱かなくてもいいので安心はできる)けれど、主導権はこちらにあるので、付き合い自体が仕事になってしまって最終的に苦しくなるような関係性がほとんどだった。

だけど、「怖がらずに安心して、頼ることもできる人」もこの世には存在していて、自分を好きになってくれることがある、ということを知った今、わたしはもう少し、自分の心が本当に求めているものを、諦めずに求め続けてもいいのかもしれないな、と思っている。



幼い頃から持ち続けていた空白は、最近、心なしか小さくなってきているようにも感じる。

自分の心が本当に求めているものを、これから少しずつ、与えていきたいな、と思う。

歩みは決して速くはないけれど、今の自分なら、そんな恋愛もできるような気がしている。

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