わたしはずっと、秋の便りを待っていたい
「いつからが秋か、その季節のはじまりは自分で決めよう」みたいなことが書かれている文章を読んだ。
決してそれに反対するわけじゃないけれど、季節の変わり目は、自分で決めるんじゃなくて季節からの知らせを待って、それをちゃんと受け取って判断したい、と思った。
その文章では、暦にとらわれず、「何月になったら秋だ」と思うのではなく、「自分でこれをしたら秋のはじまり」というトリガーというか習慣みたいなものをつくるといいですよ、と書かれていた。
特定の季節に、自分だけの習慣やルールがあるというのは、たしかにいいなと思う。
わたしにもそういう習慣やマイルールはいくつかあるし、大好きだけどその季節しか聴いちゃいけない音楽とか、そういう決まりごとを自分で密かに決めて、誰も知らないところでそれを独り占めするのが好きだ。
だけど、「これをしたから秋」なんて決めてしまったら、それって結局暦と同じように誰かが(この場合は自分が)決めた既存の枠組みに則って、何も考えずに季節が変わったと思い込むことになってしまうんじゃないか。
この文章を読んで最初に抱いた違和感は、そこにあった。
わたしは、季節の変わり目がたまらなく好きだ。
季節が移り変わっていく間の数週間、前の季節と次の季節がそこかしこに混在しながら、常に配分を変えて移ろい、流れてゆく、その期間がとても好きだ。
水に2色の絵具をたらしたときにできる、マーブル模様のようなその時期は、季節と季節が決して喧嘩するのでもなく、きっぱり「今日から、夏終わり。明日から、秋にバトンタッチ」なんて、ある日を境に完全に分かれるわけでもなく、優雅に混ざり合っていて、捉えどころがなく浮遊している。
その時期に、「あ、今日はまだ夏の暑さだけど、今吹いたこの風は少し秋の匂いがする」とか、「涼しくなってきたけど、まだ肌に当たる風の感じは秋じゃないなあ」とか、前の季節の余韻と次の季節の微かな兆しを五感で感じとるのは、わたしにとってはとても、「人間らしく生きている」という感じがする。
気候変動や、暦と実際の気温にずれが生じているからこそ、わたしは季節の知らせを、五感を使ってしっかり感じ取りたい、と、季節が変わるたびに強く思う。
それはわたしなりの「生きる」ということの意味のような、大切に守りたい誇りのような、そんな感覚だ。
ただのこだわりなのかもしれないけれど、大人になってどんなに失うことに慣れてしまっても、この感覚だけは、ずっと自分の身体の中に持っておきたい。
雨の匂いが辺りに満ちる夜道で秋を探しながら、わたしは今も、次の季節の知らせを待っている。
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秋に書いた、恋の物語たち。
夜眠る前、よかったら読んでみてください。
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