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「もう恋なんてしない」と誓った私が結婚をして、半年経って。



あの頃、どうしてわたしはあんなにも報われない恋ばかりしていたのだろう。

どうして身を滅ぼすような恋ばかり夢中で追い求めて、それが生きがいとすら思っていたのだろう。




今年の春に入籍をして、結婚生活もちょうど半年が経とうとしている今。わたしは2年前までの自分が今とはまるで別人のようだった事実を思い出して、静かに驚いている。

きっとあの頃のわたしが今の姿を見たら、不思議でならないのだろうな……。

新婚生活真っ只中にいるわたしは、刺激的で衝動的な恋のかわりに、のんびり穏やかなしあわせを日々、噛みしめているのだから。

あの頃のわたしからすれば「平和ボケしている」と言われてもおかしくないくらいゆるやかな日々を、揺蕩うように過ごしている。

だけどそれは決して、あの頃何よりも恐れていた「惰性」や「妥協」の結果ではなく、むしろ最善で最高の選択だった。

まだ半年とはいえ、結婚生活に対してそんな前向きな感情を抱けていることが、嬉しくて、誇らしい。



恋の沼から抜け出せなかった、25歳


3年前のわたしは、好きになってはいけない人ばかり好きになって、身も心も刻むような日々を送っていた。

だけど後戻りすることも諦めることもできず、ただひたすら底なし沼で必死に両手両足をばたつかせていた。

一度沼から抜け出せたとしても、また新たな沼に足をとられる。その状況は長い間変わらなかった。わたしを心配してくれる友人たちにも申し訳なくて、近況報告は少しずつ減っていった。


この恋を続けても、自分は幸せになれない。当然、未来もない。


そんなことはわかっていた。だけど、まわりの友人たちから徐々に結婚報告が出はじめる中、わたしはずっとそこから動けずにいた。動きたくない、とすら思っていた。

わたしにとって「誰かを好きになること」は、生きる希望だったから。極端な話かもしれないけれど、好きではない誰かに大切にされるより、わたしは自分が好きな人に愛を注ぎたかったのだ。

だけど、自分が好きな人に好かれるなんて奇跡はそう簡単には起きなくて、わたしはいつも2番目か、たまに会う遊び相手のうちのひとりだった。

一緒にいる時間だけ、自分のことを見ていてくれればいい。本気でそう思っていたし、そう考えていたほうが傷つかずに済んだ。

そうやって自分を保ちながら、だんだんと感覚は麻痺していき、先へ進んではいけない恋に、ずるずると身体ごと引きずり込まれていった。

自分の人生史上、どうしようもない恋の渦中から抜け出し、「もうしばらく恋愛なんてしない」と何度目かの決意をして前を向いたとき、出会ったのが今の夫だった。

彼はわたしのnoteを読んで、「この人を幸せにしたい」と思ったらしい。付き合ってからその話を聞いて、思わず目が潤んでしまったのを今でもよく覚えている。


あの頃とは180度違う、結婚生活


そんな彼と付き合って、2年が経った。
結婚生活は、ちょうど半年。

今のわたしは結婚生活にすっかり馴染んでいて、恋ばかりしていた自分のことや、その頃の感情を思い出すことが日に日に減ってきている。

むしろ夫から「恋をしていた頃のわたし」について話題に挙げられてはじめて「ああ、そんな頃もあったねえ」と他人事のように思い出すくらい。

それほどわたしは今、毎日しあわせだということかもしれない。

当時のわたしが想像もしていなかった、平穏な日々。日々の中でしびれるような刺激や、底のほうからこみ上げてくるような衝動、感情の大洪水が頻繁に起きることは、今の生活にはない。

あの頃みたいに、深夜にタクシーで好きな人に会いにいくこともないし、毎回わたしの好きそうなお店に連れて行ってもらうことで愛を確かめることもないし、デートにあわせて常に新しい服と美容院帰りの髪をせっせと準備することも、ない。

今は朝型の彼の影響で毎日24時には布団に入っているし、ほぼお家ごはんだし(たまに外食をしても単価は当時の3分の1くらい)、ユニクロの部屋着とすっぴんで、夜の町を散歩するわたしを彼はなぜか大絶賛してくれている。

最初の頃こそ「もっと外食したい、美味しいご飯を食べに行きたい」という不満を抱いたり、「あまりにも日々が穏やかすぎて、今までのように感情が大きく動くことがない」ことに対して不安に思ったりした。

けれど、気づけばなんてことのない日々が大切で、愛おしいと思うようになっていた。

そして、彼への恋心は時を重ねるにつれて愛情となり、その深度は今も日に日に増している。


ひとりの人を選ぶなんて、無理だと思ってた


いま思えば、あの頃のわたしは「結婚」という「これからの人生を一緒に生きる誰かを、たったひとり決める」という決断を、重く捉えすぎていたのかもしれない。

3年間家族ぐるみで付き合っていた、はじめての恋人に突然振られたり、逆にわたしのことを一途に想い続けてくれていた恋人への恋心が急にしぼんでしまったり。

そんな経験を重ねていたら、「人はいつか変わる」「ひとりの人と満たし合うなんて、不可能だ」という考えがすっかり定着してしまっていた。

だからわたしは、たったひとりを人生の伴侶として選び、ほかの人に心変わりもせずふたりで生きていくなんて、自分には到底無理だと思っていたのだ。

だけど、「そんな相手がこの世にいた」ということを、彼と結婚して、知ることになった。



結婚をしてから、彼は夫であり、家族であり、恋人であり、親友になった。



彼が何役も兼ねてくれているから、28年間一緒に住んでいた家族と離れて暮らしていても寂しいと感じることはほとんどないし、移住して知り合いがいなくても、彼と一緒に過ごす時間が楽しいから全く困らない。

(もちろん、せっかく移住したのだから京都でも友達はつくりたいけれど…!)

ひとりの人で満たされることはあり得ない、と思っていた3年前までのわたしに、声を大にして言いたい。いつかそんな人と出会えるよ、と。

彼と結婚をして、わたしはすっかり満たされて、今まであんなに欲しいと思っていたものたちが、全く魅力的に映らなくなった。


愛されるよりも「愛していい」という安心感


いつもわたしのことを一番近くで応援してくれて、味方でいてくれる。そのことが何よりも心強くて、彼の隣にいる時のわたしは、すっかり安心しきっているなあと自分でもわかる

すっぴんでも、おしゃれをしていなくても、朝なかなか起きれずにいても、仕事でつらいことがあって号泣しても、どんな時でも「かわいいよ」と言ってくれるのは、2年経っても変わらない。言われた時の嬉しさも、同じく色あせていない。

いつもわたしを愛してくれる人がいる。そして何より、自分もその人に対して惜しみなく愛を届けていいのだ、という安心感。

わたしはきっと、そんな感情を求めて恋を続けていたのだなと、結婚をしてはじめてわかった。

そして、このままのわたしを、わたし以上に愛してくれる存在ができたことが何よりも心強い。

挫けそうになったとき、ただ隣に彼がいてくれるだけで「休んだら、もう一度頑張ってみようかな」と前向きになれる。



「ななみはいつも、頑張ってるよ」

「本当に才能があると思う。できるって信じてる」



わたしが迷ったり悩んだり、絶望したりやる気がなくなったりしたとき、いつも変わらずに伝え続けてくれる。その言葉たちのおかげで、わたしは自分のことを素直に認めてあげられるし、鼓舞することもできている。



彼と一緒に生きていたら、わたしはこの先なんだって叶えられそうな気がしてならない。



寂しさや不安、愛の不足を埋めようとしていたあの頃のわたしは、彼と過ごす日々のなかで少しずつ無防備な自分を取り戻し、叶えたい未来に向けて、ようやく前を向いて歩き出そうとしているのかもしれない。

たったひとりでも、自分の味方でいてくれる人がいる。どんな自分も、愛してくれる人がいる。

あの頃はその言葉の意味がわからなかったけれど、今ならわかる。 



彼の隣は、世界でいちばん、わたしでいられる場所だ。



***



結婚生活がはじまって、まだ半年。

これからも、いろいろな試練が待ち受けているのだろうけど、ここに書いたことは忘れずにいたいなあと思う。

そして、あの頃の自分と同じように、苦しい恋から抜け出せなかったり、結婚に対して後ろ向きな感情を抱いている誰かの心に、少しでも触れることができていたらいいなと願う。



岡崎菜波 / nanami okazaki

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