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桜蔭、鉄緑、教育②

わたしは受験を目標にする今の教育のあり方に納得が行かなかった。教育とは本来、何のためにあるのだろうか。教育とは、より良い社会に貢献する人間を育てるためにあると思う。

しかし現在の学歴社会における教育というのは「自分が」〇〇大学に「受かる」ために何をすべきか、それを強いるものだ。従って他人のこと、ひいては社会のことなど考えようとしたところで(「自分」が大学に「受かる」上では、)全くもって意味のないことだと生徒たちが考えるのも当然のことだ。

そんな教育で他者貢献や社会貢献を説いても説得力がないというものだ。事実、今の社会がそうではないのだから。そして自己中心的な人々からなる社会は未熟である。他者のことを信頼できず、協力し合うことができない。人は孤立し、誰とも心を開くことはできない。

だがしかしこれほど言語化できるようになったのは最近のことである。当時のわたしは、教育をやりたい、ということをこれよりも遠回りな言い方で周囲に語った。そしてそれであなたの成績なら東京大学だろう、と周囲の大人はわたしに説いた。わたし自身は、東京大学に行きたいという気持ちがあまりなかった。しかし周りに反抗してまで、受験しないことを決断できるほどの強さはなかった。

東京大学は、あまり行くつもりのないような志で受かるような大学ではなかった。鉄緑会に通い続けていたからか B判定あたりは出ていた。しかし結果は不合格だった。

わたしは嬉しくも悲しくも悔しくもなかった。そこで確信した。わたしは東大の肩書きのために、努力してたわけじゃなかったのだ、ということを。そして、東大にしかないことがある、と周囲が語る言葉に、疑問を抱いていた、ということを。


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