東京よもつひらさか往還


「『心の中の孤独を表現しました』なんて作品、自慰行為に等しいよね。恥ずかしくないのかしら」

彼女は勢いよく映画館の扉を開けた。美術学部のアニメーション上映会に行った夜だった。

「『私の心象風景』ってテーマ多すぎ。誰もあんたの心の中なんて興味ないってば」

私も彼女に相槌を打った。


渋谷の映画館を出ると、眼下に繁華街が広がっていた。街灯に照らされた人の群れは、冬の間の重たい衣を捨て、ふわふわと彷徨っている。彼らが空気をかき混ぜると、それに纏わりつくようにして薄紅色の靄がどんどんと谷底に集まり始めた。暫くそれを眺めていた私は、彼らに影が無いことに気が付いた。

私と彼女は暫しの間、それをぼーっと眺めていたが、顔を見合わせうなづくと、館の周りで会話に興じる友人らへの挨拶もそこそこに、渋谷駅に早足で向かった。

ようやく私たちが人心地を取り戻したのは、山手線が半周して日暮里につく頃だった。
人気の減った電車の中には先ほどまであちこちにいた乗客の気配が漂っている。私と彼女は同時に深呼吸をして、くすくすと笑いあった。

居酒屋で出される薄まったアルコールの匂い。安っぽい柔軟剤の匂い。人間の汗の持つ刺激臭。先ほどまで座っていた人間の温もりが残る座席から立ち上る熱。それらが混然一体となったものを感じ、私たちはその夜始めて座席に身をもたせかけることが出来たのだった。

「飲まない」「飲もう」 どちらからともなく発した呟きに被せるように

「つぎは~にっぽり~」という乗務員のアナウンスが車内に響き渡った。

私たちは、日暮里崖線のカーブにつられるようにして席を立った。


春の闇は薄紅をはいたように淡く染まっている。

蛤が、茹だるような夏日に蜃気楼を吐くように、桜もまた宵に紛れて密やかに呼吸をしているのだろう。

ヒールを斜面に刺すようにして私たちは墓地の脇の道を上った。

途中の行きつけのバーは閉店準備をしているところだった。入り口からマスターに挨拶をしてハートランドビールを手に入れ、再び山の頂上を目指し歩き始めた。

谷底に蠢く酔客も流石にここまではやってこない。

私と彼女は山の上の公園までたどり着くと、そのまま噴水の淵に腰を下ろし、再度乾杯をした。緑色の瓶が鈍い音を立ててぶつかる。瓶の向こう側に、国立の美術館の堅固な建物がそびえていた。

「私の孤独を表現しました、で終わればまだいいのよ。それが『あなたにもあるよね、孤独!』ってなってくると気持ち悪い。押し付けないでよって思う」

彼女の言葉が、先ほど見た短編アニメーション作品のひとつを指しているのだということがわかった。

美術学部出身の彼女は、どうやら嫌というほどそういうものを見ているようだ。吐き捨てるような声色に、暗闇の向こうの彼女の表情が滲み出ているようで、私は笑った。

「終わりのない悪夢を観ているようだったね」

私の言葉に彼女は そうそう、と嬉しそうに言ってビール瓶に口をつけたようだった。

奥行きも時間軸も存在しない世界を延々と見せられた私たちは、それから解放された嬉しさで饒舌になった。

「会社員イコール仮面をつけた人間、って図式やめてほしいよね」

「立ち止まって悩んでいる自分を、昔生きていた犬が導く、みたいなのもありがち」

「現代人の敵は社会と自我なのか。日本は平和だねー」

アルコールで火照った足をパンプスから抜き、噴水の水に浸す。ちゃぽちゃぽという音が間抜けに響いた。この音は向こう側で寝ているホームレスのおじさんの夢の中にも届くのだろうか。

隣にいる彼女は話すのをやめ、私の真似をして噴水に足を浸した。

瓶を石の上に置く ことり という音がした。

私も口をつぐみ目を閉じて、谷底から漂ってくる気配に耳を澄ませた。先ほど観た光景が脳裏によみがえる。

渋谷の映画館を出ると、そこには雑踏が展開していた。

物語もなく、薄っぺらい同時性のみが存在する世界。

電光掲示板には断片的な広告が点滅していて、その下の交差点では人の波が、信号機によって一定に分断される。渋谷の海は昼間に満潮になり、夜更けになると静かに砂浜を露わに呼吸を始める。砂に潜っていた貝たちがゆっくりと殻を開き、砂上に楼閣の姿を築きだす。

あの光景は、誰の作品だったっけ。パンフレットを探そうと鞄の中をまさぐるが、春の闇に紛れて見つけられない。あれ、と思い、彼女のいるほうへ手を伸ばすが、そこにいるはずの彼女はいなかった。石の上にわずかに残ったぬくもりは、私がそれを撫でさするうちにどんどん冷えていった。

手元に薄紅色の闇が集まってきている。

内面の孤独はいつのまにかくるっとひっくり返り、私の外側を取り囲んでいた。呼吸をするたびに薄紅色の闇は肺に取り込まれ、そこから血管に溶けて体中を巡りだす。

さざめきが耳元で聴こえてくる。指先に花弁の柔らかな感触を感じた。

私は東京の東の墓地の中で、死者の眠りに同調する。

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