影を観る

父の書斎に積まれていたビデオの一つに、ゼッフィレッリの「ロミオとジュリエット」があった。
小学生の私は父に「観たい」とせがんだが、彼は「18禁だから一人で観ろ」と告げ、ビデオをデッキに突っ込むと書斎を出ていった。
一人体育座りをして観たその映画、内容は特に18禁でもなかったし、過激なシーンも無かった。
それでも、意識の根底で「これは大人の映画なのだ」と考えながら、段々と暗くなっていく書斎で観た映画の記憶は、今でもある。
画面の向こうではジュリエットの乳房が柔らかく震えていた。窓の外では夕方のチャイムに被せるように、児童らが鬼ごっこをしている嬌声が聞こえていた。

元々、両親が映画や舞台が好きということもあり、小さい頃から映画や舞台を観ていた。
過去に、何もわからずに母の膝の上で観ていた「ブラザーサン・シスタームーン」や「薔薇の名前」が「映画」であること
ロンドンのグローブ座で観たシェイクスピアの「リア王」は、現代の人間が演じているだけで、あの人達は普段からややこしい言い回しをしているわけじゃないということ
彼らは役者という職業の人間なのだということも認識するようになった。

先週、Bunkamuraのル・シネマで、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の「天使の涙」を観て来た。
スクリーンで再上映してほしい映画ベスト3のうちの一つ(あとは「チャーリーとチョコレート工場」と、「ブレードランナー」)だったので、本当に嬉しい。
流石ル・シネマ(実は学生時代のバイト先)。

天使の涙については割とネット上にレビューなりネタバレなりが載っているので、気になる人は調べてみるといい。
しかし、あらすじがわかっても、結末がわかっても、それは映画を観たあとの感想にはなり得ないのだ。

私の中には、良い映画の基準というのが割と明確に存在していて、それは「映画であることでしか表現できないもの」が描かれているかどうかという点である。

文章では表現しきれない人間関係、
写真では成立しないプロット、
テレビの光では映せない風景

これらがうまい具合に調和している作品が好きで、
ここ一年だと
グザヴィエ・ドランの「たかが世界の終わり」の登場人物それぞれの内包するものの圧に胸が苦しくなったし、
パオロ・ソレンティーノの「グランドフィナーレ」の映像の美しさに映画館でも飛行機でも大泣きした(化粧総崩れって、全米が泣いたよりも説得力あると思う)。
はたまた少し前のやっぱりドランだけどMommyの画面の使い方による心的操作に上手く乗せられてしまった。 
それに、ゴンドリーの作品は誰がなんと言おうと好きだ。

王家衛の作品はその中でも特に映像においての比重が高く、彼の作品を例えばAmazonプライムで観たとしても、良さはちっともわからない。

ストーリーの行間から立ち昇ってくる登場人物の心の揺れや街の匂い
それは例えば涙を映さずとも「泣いているのかな」とスクリーンの外側にいる「私たち」が心配をしてしまうような映像や、
金城武演じる男が、女性を愛おしむように輪郭を象るシーンを観て感じる、心の裏側の襞を撫でられたかのような感触。
アジア特有の湿気が立ち昇るようなその風景の中で、確かに登場人物たちは生きていた。

そして、映画館で観ることの最高のスパイスは「共同幻想性」。
凝縮された空間を成立させるには、そこに同時に集った人間たちの協力がなくてはならない。
シネコンは広い空間と徹底した商業システムのせいで、その「共同性」が生まれづらい。
広々とした座席に、掃除しやすい硬い床。気遣いを排除した空間に、上映が始まった後に滑り込んだ観客の足音が虚しく響く。
おかしいシーンで湧き上がる笑い声
沈黙の中に遠慮がちに聞こえる鼻をすする音
暗い小さな宇宙を俯瞰しながらも、私達は一人ではないのだと思うとき、私の心の中には、在りし日の書斎の向こうに広がっていた夕焼けが浮かぶ。

映画を観ること
演奏会に行くこと
これらは、
ただ、自らの内に情報を入れるだけでなく、心を揺らすことや他者と繋がることなのだ。

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#日記
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#短編小説

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