外圧に負けない体づくり

「お手洗いに行こう」
休み時間になると、花からそう声をかけられるのが憂鬱だった。
だからチャイムが鳴るとすぐに図書館に逃げ込む。

身体の帯びる水分なんて大した量ではない。紙の束に囲まれていると、行き場をなくしていた感情が音もなく吸い込まれるのを感じる。柔らかく黄ばんだ紙をめくるたび、指先から移った水分が紙を柔らかくたわめていき、紙は深く呼吸をするように伸び上がる。
陶器の冷たい便器に排泄するよりも、よほど有効に肉体とそこに貯められた資産を活用していると思うのだ。

花は、私がアメリカから日本の学校に転入してきたその日のうちに、真っ先に私の側にやってきた。
ほかの女子生徒が私を遠巻きに眺めながら様子を伺う中で朗らかに微笑む彼女は、クラスの中で斥候のような役割を担っているのかとも思ったが、彼女から巧みに目を逸らすクラスの構成員を見ているうちに、そうではないということが理解できた。
彼女は、まだ転入したてで教科書も持っておらず、学校の地図も把握していない私に甲斐甲斐しく世話を焼いた。
それはとてもありがたいことであったが、私は日が経つにつれて次第にその押し付けがましい親切さを鬱陶しく思うようになる。

「あなたは髪の毛の色も明るいし、ピアス開けているから不良のように思えるのだけど、実際あなたはどういう人なの」
理沙にそう声をかけられたのは、図書館から廊下に出てすぐのことだった。ここ一週間くらい、よく図書館で顔を合わせていたけれど、言葉をかわすのは今日が初めてだ。
「髪が明るいのは、私が住んでいた場所が太陽に近い場所だったから。そのせいで色が落ちちゃったのよ」

「素敵な場所に住んでいたのね。そのピアスも住んでいた場所のせい?」

理沙は面白そうにこちらを覗き込んでくる。私は首をすくめながらこう答える。

「向こうに連れて行かれた時に、周りにはやく馴染みたくて開けたの。でも、親の転勤の都合でまた日本に戻るって決まった時、これからは周囲に馴染むために自分を変えることはやめると決めた。だから、日本でもピアスはつけ続けることにした」

「ふーん。今読んでた本、教科書に載ってた鷲田清一でしょう」

その言葉で、彼女が私と同じ教科書を使っている、つまり同学年なのだと気がついた。
勉強熱心なのね、と続ける彼女に「違うの」と答えた。
「アメリカに比べて日本の広告ってタレントがたくさん使われているのよ。電車とか、コマーシャルとか。私、あの目線を浴びているとくらくらしちゃうんだ。もううんざり。けど、彼の文章を読んで、その事象に対して答えが得られそうだと思ったから、続きを読んでいるの」
私がそう言うと、理沙は、答えが得られたら教えてねと微笑んだ。
それから私は少しずつ理沙と過ごすようになった。

花がピアスを開けてきたことに、私は先生に呼び出されるまで気がつかなかった。
どうして呼び出されたのかわからず教員室に突っ立っていた私に、先生は花がピアスを開けてきたことを伝えた。「そうですか」と答えた私に、先生は小さくため息をつくと、パイプ椅子を軋ませて向き合った。

「田中さんは、あなたがピアスを開けているから自分も開けた、って言ってるわよ」
「そうですか」
「お友達よね。あなたが勧めたのかしら」
「いいえ」
「こうやって真似する人が現れるから、ピアスをつけるのはやめなさい」

「どうしてですか。私は自分の意思でピアスをつけているだけです。他の人がそれを真似しようが、批判しようが、そんなこと私には関係ないじゃないですか」

私の声は静かだったけれど、教員室の中はしずまりかえった。空調の動作音が鈍く通奏低音のように響いている。ここは太陽の光が届かない。体の底にいつのまにか鈍い湿り気がうごめくのを感じる。その湿り気に自分の芯がどんどん取り込まれるような心地がして、くらくらした。私は先生の返事を待たずに部屋を出た。

アメリカに渡った当時の自分がよみがえる。周りの会話が聞き取れなくて、何を問いかけられているのかわからなくて、とりあえずうなずきながら「私も」「それでいい」と答えていたちっぽけな自分の背中はきっとこわばっていただろう。

「あなたの考えは何」「本当はどう思っているの」「どうしたいの」

やがて出来た友人たちの視線は、私の考えを過不足なく理解するために私の体に降り注いだ。それはまるで太陽のように、私を生き生きと成長させた。

不特定多数に、一方的に見つめられる視線の中で、私はまた無理やり歪められ、たわめられつつある。そうしてどこへも行けなくなることを望まれているのかもしれない。纏足の女性のように。羽化に失敗した蝶のように。

体を形成するのは外圧だ。その圧力が理不尽であろうとも、それに潰されないためには、体の内側からそれと同じだけの圧力で押し返さなくてはならない。

図書館に駆け込むと、理沙がいた。勢い良く扉を開けた私に「静かに」と声をかける。その声の持つ芯のようなものに、私は何故だか泣きたくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?