容姿の、二元論

「可愛いね」
「美人だね」に
「知ってます」と答え続ける人生だった。
他に何と答えれば良いのか。
事実を述べられても、困ってしまう。

20代前半までは、容姿は二元論でしか語られない。
可愛いか、可愛くないか。
美人か、美人でないか。
綺麗か、綺麗でないか。
常に望む望まざるに関わらず、
土俵に引っ張り出され、判断されてきた。

「可愛いと、おいしい思いを沢山してるでしょう」
と寄ってくる男性には
「可愛くなかったことが無いので、わかりません」と言ってしらばっくれた。

「美人なのに目つき悪いね。その眼光の鋭さが堪らないんだけど」
と言ってきた男性もいた。
おかげで私は痴漢に遭ったことが殆ど無い。

「君は将来美人になる」と言った男性もいる。
母親の元ストーカーだった。

可愛く、美しくいるのって、寂しい。

そんな気持ちに気がついたのは、表参道の美容院で、初対面の美容師に
「あなたは美人だから」
と言われた時だった。
彼は私の黒髪を手に取り、鏡越しに私の顔を分析した。
「美人だから、黒髪のワンレンが似合う」
と彼は黒髪に指を滑らせる。
湿り気のない、乾いた指だった。
気分を変えたくて美容院を変えたのに、結局髪型はいつものままだった。
サロンを出て表参道を歩くと、柔らかい髪の毛先が肌に触れ、それは少し気分を高揚させた。
髪を染めたりして、この感触が失われるのは惜しい、と自分に言い聞かせた。

私は染髪もパーマもまつげエクステもしていない。
する必要が無かったからだ。
自分の容姿に満足しなかった人たちは、それらのツールを使い、新しい自分を獲得していく。
既に与えられたものを失うことが怖い私は、もしかしたら秩序から逸脱する術を手にいれそびれたのかもしれない。

そうなのだ。
私は、そろそろ、可愛い、美人と言われることに飽きてきたのだ。

20代も半ばになると、単純な基準の他にも、沢山の褒め言葉があることに気がつく。

内側から品が滲み出る先輩
水蜜桃のような肌の持ち主の後輩
自分の個性をわかっている友人
着物を着ると迫力が増す親友(伏し目がちに佇む姿が堪らない)
彼らは皆気高く、輝いている。

そんななかで、相変わらず
「美人」
「可愛い」
としか評されない自分だけが、変わらずに幼くいるような気分になる。
破れたジーンズを履いていても「綺麗」
綿のワンピースを着ていても「美人」
イッセイミヤケを着ていても「可愛い」
おかしいだろ。

「君に初めて出会った時、目が惹きつけられたんだ。こんな子に出会ったこと、人生で無かったから。それからずっと、君だけに惹かれる」
彼がそう言ったのは、出会って10年目のことだった。
国際電話で、彼はこともなげに、そう説明したのだった。

この人はそうだった。
今まで出会った人達は、私の容姿を褒めることで、私におもねる人ばかりだった。
彼は違った。
私が自分の容姿を持て余していた少女だった時も、
「可愛いんだから仕方がない」
と、厭世観を共に受け止めてくれたのだった。
そもそも初めて会った時、私は自分の容姿が嫌で、眉毛を剃り、前髪を短く切りそろえて男性の不躾な目線から距離を置こうともがいていたのだった。

私は黙って彼の言葉に耳を傾けていた。
電話越しに、アジアの繁華街の喧騒が聞こえた。
彼は都心のホテルの一室で私の顔を思い浮かべているのだろうか。
「でも、困ったことに、会えない時間に君の顔を思い浮かべようとしても、全く思い出せなかったんだ。ただ、君のもつ空気感とか声の出し方とか、覚えているのは断片ばかり。会うと懐かしくなって脳裏に焼き付けようとするんだけど、それが出来ない」
だから君は特別で、唯一なんだ。
私と彼の言葉が宙空で重なった。

彼の言葉は、私を分類しない。
きっと私が空を飛ぶ鳥だったとしても、彼は私を見つけてくれただろう。
私は、綺麗で美人で可愛いけれど、その前に私なのだ。

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