言葉の暴力に遭遇したら、どうする?

恋人がタイに出張に行ってから半年が経つ。
現地のスタッフに技術を教えている彼は、事前研修を終えた後の電話で
「タイでは怒鳴ることも暴力だから、絶対怒鳴ってはいけない」
と言っていた。
そんなことをしようものなら、警察沙汰になるそうだ。

言葉の暴力に遭遇した時、あなたならどうするか。
「抗議する」
「録音して、拡散させる」
では、自分自身ではなく、周りで言葉の暴力が振るわれていたら?
止めることができる?
きっと見て見ぬ振りをするのだろう。
止めることが出来る、と言う人もいるだろうか。
私は、出来なかった。
いつも、いつでも出来なかった。

その日、私は渡航前に必要な書類を揃えるために、日本の病院にいた。

私の不手際で、書類を提出する期限が迫った中での検査だった。
検査項目は心電図やらなんやらとややこしく、すべてをまとめて受けられる病院は限られていた。

市の職員に教わった病院は、どれも全て予約が埋まっていた。
そのに電話をしたのは、殆ど投げやりな気持ちでいた時だった。
近所のかかりつけのクリニックでは検査は出来ず、
かかりつけその2にも、その3にも「設備が無い」と断られた後のことだった。

そういえば家から自転車で行けるところにもう一つ病院があった、と思い出した時も、すぐに「どうせ断られるだろう」という思いが去来した。

病院に電話をすると、しばらくコール音が鳴った後に受話器を取る擦過音が聞こえた。

「渡航前の健康診断書が必要なのですが、そちらで出していただけますか」
受話器から聞こえた声が、留守電の録音でないことを確認した私は、すぐさまそう訊いた。

「はい。良いですよ」

事務員と思しき声は「お日にちはいつがよろしいですか」と続けた。

「なるべく早いほうが良いんですけど。…あの、検査項目は心電図と、内科と...」

私が挙げ連ねた項目をすべて事務員は、聞いているのか聞いていないのか、
被せるように

「明日の午前中はいかがでしょうか」

と尋ねてきた。
受話器の向こうは静まり返っていた。

病院は静かだった。

私は、病院の待合室に高確率で流れているオルゴール調のBGMが非常に苦手なので、病院に行くときは耳栓を持っていくのだが、その病院では耳の穴を埋める必要は無かった。

9時半の開院時間に合わせて赴いたのだが、私以外の受診者はいなかった。

問診票に記入する間中、事務員と看護婦が受付から静かにこちらを眺めていた。

検査は順調に進んだ。

「少し徐脈の傾向がありますね」
「低血圧なのね」
看護婦のコメントも特に真新しいものはなかった。

採血をされている時には、これなら大学に最初に相談すればよかったかな、など考える余裕も生まれた。
病院は真新しく、様々な機械が所狭しと並んでいた。

採血が終わり、待合室で腕を抑え止血をしていると

「最後は院長先生による診察ですね」

と看護婦が話しかけてきた。
彼女に促され、「院長室」と書かれた扉を開ける。

向かって左側に置かれた机の前に、その医者は座っていた。

私をちらりと一瞥すると、すぐに机に向かい、パソコンのキーボードをたたき始めた。

「よろしくお願いします」

私の言葉は吸音素材の壁に吸い込まれていった。
医者がエンターキーを押す乱暴な音が乾いた部屋に響いた。
「肺の音聞くから服まくって」
医者は私を見向きもせずにそう命令をした。
私はおずおずと、カットソーの前面を持ち上げ、服と身体の間に隙間を作った。
医者は私に向き合うと、
「もっと上まであげてよ」
と服を掴んだ。痰の絡んだようなざらざらとした声だった。
私は驚き、服を持ち上げる腕を下げた。そして、急な出来事に心拍数を上げながらも
「これだけあげれば十分でしょう」
と答えた。
「なんだよ、それじゃあ診察出来ないじゃん。帰って」
医師は盛大に背もたれに寄りかかってため息をついた。
重みを受けた椅子の金属部がきしんだ音を立てた。
先程から私の心臓は激しく音を立て、血液を押し出している。
この音がお前には聴こえないのか。
看護婦は私の背後で、神官のように静かに首を垂れている。
耳元で唸りのように聴こえる真っ赤な濁流は、空気に触れることなく私の身体中を駆け巡った。その音は私にしか聴こえなかった。
それは、起動中の医療機器たちの放つ通奏低音と混じり幻聴のようにぼやけた。

「お疲れ様です。お会計の用意が出来ております」
診察を終え、服を直した私を、待合室の事務員が出迎えた。
窮屈そうな茶色い制服の襟元に、ファンデーションの汚れがあるのが目に付いた。

「こちら診察券なのでお持ちください」私が検査結果を受け取り鞄にしまう間に、事務員は小さなカードを差し出した。
薄い水色のカードには花の模様が刻まれている。
「捨ててください。こんな病院、二度と来ません」
声が、震えた。
何の咎もない事務員に、そんなことを言う自分が情けなかった。

事務員は困ったように微笑んで
「院長先生、機嫌にムラがありますからね」
と答えた。
私はまた耳元で濁流が流れそうになるのを懸命に押し留めた。

病院の自動ドアを抜けると、たちまち湿気を含んだ空気に全身を包まれ、自分の身体が冷え切っていたことに気付く。
ああ、そういえば今までも、暴力は曖昧な輪郭を纏って私のそばにやってきた。
暴力は、運命のようにドアを叩くことはないのだ。
白く冷たい建物の中で、スーパーに陳列された魚の切り身のように、あの人間たちは嫌な汁を出しながら穏やかに腐乱していきますように。
地球が滅びても、それに気が付かずに暖かい人間の体温と血を求めて彷徨いますように。
ありったけの呪詛を吐きながら、私は渡航の準備を進めるべく、自転車のペダルを漕ぎ続けた。

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