【つらつら草子⑱】Ich bin ich(私は私)

 ずっと温め続けている散文詩のネタが広がるだけ広がってまとまらないので断片的に書き出してみる。すでに何度も書き出しているのだけれど書けば書くほどあっちこっちに広がってしまうので広がるままに書き出してみようと思った。
Ich bin ich. 
ドイツ語で「私は私」である。
英語だと I am me. である。なんでここがmeになるのか、「me too」にしてもそうだが英語話者でない上に英語が壊滅的にできない私にはこの「me」の扱いがさっぱりわからない。その点「ich」はわかりやすく「ich」である。そのブレなさが心地よい。
 心地よい、とは思うものの日本語と比べれば全然にブレているのだ欧州言語というものは。「私」というときにそれは主格なのか所有格なのか目的格なのか与格なのかといった区別をもたない「私」である。「ich」はあくまで主格としての「私(が/は)」で「私に」となればそれは「mir」となるのだから「ich」の音は消えてしまって、強い「イッ」の音も「ヒ」の音も消えてしまって英語の「me」を彷彿とさせる「ミ」の音が現れて、けれど全く違う2つの音の間に「私」が佇んでいるのが恐ろしい。「mir」というときに「ich」は消えているのに日本語で表せばどちらも「私」だという。英語は主語が必ず必要な言葉だというがそれは各変化で同じ音が被らないせいもあるのではないかと思う。I my me のすべてが「I」だったらアイアイアイアイとうるさくなるけれど変化するから気にならないし日本語で「I my me」のすべてを「私」と訳せば「わたしわたしわたし」とやかましくなるから、そりゃ略すだろと思ったりもする。実際の言語学的な話はわからない。
 じゃあ日本語の「私」が揺るぎないのかといえば当然そんなことはなく「地下室の手記」は訳者によって書き出しが「私」だったり「俺」だったりするので訳文によってだいぶ印象が違うが原文を見ればそれはただ単に一人称単数があるばかりである。小説の書き方という話になるとときどき登場する「ボヴァリー夫人」の書き出しも「私たちは自習室にいた」と訳すものと「僕たちは自習室にいた」と訳すものがあり、そもそもこの「私」は誰なのかというのが小説の書き方、視点の問題として上がってくるのだけれど、原書フランス語は一人称複数なら英語ドイツ語はどうだろうと検索したら、英語は当然「We」だったのにネットで見つけたドイツ語版は「それは自習室のことだった」と主語を抹消していて愕然とした。このあたりでボヴァリー夫人の冒頭のネタを詩に盛り込もうという努力は一端折れた。まさか抹消されてるとか思わないじゃないですか誰だよ訳者、「ここでの私とは誰なのか」論争が完全に消えてしまってるけどそれでいいのかドイツ語版。面白いけど広がりすぎてしまったので翻訳本漁りながらのネタ集めはここで一時頓挫する。
 日本語の一人称問題。翻訳で意味がぶれてしまうことに触れるまでもなく日本語の一人称の多さというのはややこしい。「私は私」をドイツ語に訳せば「Ich bin ich」が妥当だろうが、これを日本語にどう訳すかとなると幾通りもの訳が出てくる。「私」か「あたし」か「僕」か「俺」か、わし、おいら、それがし、吾輩、やつがれ、拙者、ワイ、わっち、あちき、等々。さらに終助詞の有無でその意味は大きく変わる。「私は私だ」「私は私よ」「ワシはワシじゃ」「ワイはワイや」、「は」を「が」に変えるとカオスが生じる。私が私だ俺が俺だ僕が僕だワイが僕だ俺があたしだ私は俺だ。「Ich」はどんな一人称にも訳せるのに「AはB」だというときのAとBで使われる一人称は同一の物が入らなければいけない、「僕は私だ」と言えばそれはもはや多重人格的なニュアンスを帯びてくる、さらに「わたしはわたしだ」という音をどう表記するのか。漢字かひらがなかカタカナか縦書きか横書きか平安がなか。
「わたし」というのが児童書などでひらがなで書かれることが多いのには2つ理由があり、そのうちの一つに「わたし」という読みが長らく常用外だったという背景がある。先日の常用漢字改定でようやく「わたし」も常用漢字の読み方として含まれることになったが、それ以前では「私」の読みは、「シ」と「わたくし」の2つのみであった。そのため「常用以外はひらがなにする」というルール下では「わたし」と読ませたければ「私」は「わたし」あるいは「ワタシ」と表記するしかなかった。そうでなければルビが要る。先日の常用漢字改定で晴れて「わたし」が常用の読みに、ついでに「俺」も常用漢字に入れられることになったわけだが、この「私」という漢字の履修学年は小学校6年に割り振られており、そのため小学教科書の「私」はほとんどが「わたし」となっている。私はこの詩を一つの朗読用の詩として作ろうと考えているのだが、その場合「watashiは私ダ」と書かれているこの文が漢字で書かれているのかひらがなで書かれているのかはたまた縦書きか横書きかはわからない。ローマ字かもしれない。訓令式かヘボン式か。正解はない。正解などない。少なくとも「Ich bin ich.」には正解があるし「I am me.」にも正解があるが「ワタシはWATASIだ」には正解がない。「ワタシハワタシダ」と音を表す文字として書き言葉としての正解は、ない。
 I my me の不確定さに怯える日本語話者である私はその一方で当然日本語の一人称の「選ばざるを得ない強制」というものにも恐れおののいており、なにはともあれ男も女も子供も「I my me」で済む英語に対して日本語の「私」は意味が多すぎる、意味が。私が「わたし」を選ぶときに意味するものは選ばなかったそれ以外の持つ一人称のニュアンスを抱いたまま「私」を名乗れないという欠落感、「私」が思考するときに「私」は「俺」に「僕」に「ワシ」に「おいら」に変化していて「私」は「僕」でも「俺」でも「おいら」でも「あたし」でもあるのに私が「私」を選ぶときにそのニュアンスは消える、それは「俺」を選んでも同じで「俺」を選ぶときに「僕」が殺されるという事実、選ばなれなかった「私」が抹消されるという事実にいち日本人たるこの文の書き手は「一人称を発しない」という選択をする。どれを選んでもどれかを失うこの日本語のニュアンス、欧州での「彼/彼女」という区別の面倒臭さは他者から押し付けられる外見によるものだが一人称は誰にとっても変わりなく一人称でありそれを発することで「自発的なように強制されるニュアンス」はない、それが、それがとてもうらやましく思う。一つの一人称を選ぶたびに殺されるその他の一人称のニュアンス、反復される「俺」と反復される「私」とで反復される選ばれなかった他の一人称の抹消、その繰り返しの作り上げる自我、「ich」と叫ぶことのできないこの言葉の不自由さ、それは二人称にしても同様で存在している。お前、あなた、君と言われることで押し付けられるそれは「er/sie」のような三人称に向けるフラットさではなく圧のある上下としてはねのけることの難しさとしてある、彼・彼女と発するその人は彼・彼女の前にいないのだから。目の前の人に押し付けられる「君」「あなた」に向き合うことはないのだから。
 Ich bin ich とはいえても「わたしはわたし」とは言えない、一人称を用いずに動作を表現できる言語の中で一人称を用いることなく訳すことのできない「ich bin ich」。
 どの一人称をあてがってもそれはich ではない何かだ ich が抱くすべての一人称のうちの一つだけを拾い出して他を抹消した何かだ、それは、ich でも I でもない「ワタシ」だ。


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