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卒業

2024年3月18日


ーー音楽大学

約4年間、一緒に音楽をした仲間へ
卒業おめでとう。

ピアノ科の人に限らず、同学年の皆が居たから音楽嫌いにならずに済んだのだと思う。
本当にありがとう。


不安だらけの1年生

コロナ禍で、オンライン授業から始まった私の音大生活。

自分の慣れ親しんだ部屋から、小さなiPhoneの画面に向かって声に出した自己紹介。
あの、奇妙な高揚感と緊張を忘れることはきっとない。

慣れたはずの部屋で、慣れない授業。

小さな画面の中で初めて合わせる顔と、イヤフォンを通して聞いた初めて聞く声。
これからの大学生活への不安と、それ以上の楽しみは、ずっと憧れて追いかけ続けた音楽大学での生活への期待でしか無かった。

4年間を通して1番記憶に残っているのは、1年後期の実技試験。

《ノクターン第13番》

大好きなショパンのノクターンだけに、やっぱり難しかった。

大好きなショパン、大好きなハ短調、大好きな旋律、大好きな曲、それと「誰にも負けたくない」という気持ち。


ペンすら持てないほどの腱鞘炎に悩むほど、何時間も、何時間も練習しては泣いていた。

高校の頃の恩師の先生に「満足に弾けない」なんて弱音を零してしまうほどにがむしゃらだった。

「そんな簡単にピアノが上手に弾けるようになると思ってたの?」って、厳しい言葉に思わず笑った帰りのバスの中。

名曲だって言う先生の言葉にどれほど救われたか。

どこまでも自信の無い私はいつだって「こんなんじゃダメだ」と戦っていて、誰かに背中押して貰わなきゃピアノの前に座ることすら出来なくなるほど弱かった。

思い返してみても、何人の人に喝を入れてもらって、背中叩いて貰ったんだろうか。

このノクターンで初めて貰った“ ピアノのお仕事 ”

本当に私じゃ力不足だったのに、ピアノでお金を稼ぐという初めての経験が、私に責任を教えてくれた。

初めて私にピアノを教えてくれた先生に、数年経ってようやく、「ありがとうございました」が心から言えた気がした。

挑戦したベートーヴェン。悲愴のソナタ、第一楽章。
左手のトレモロが難しくて何度も泣いた。あれほどまでに、ピアノにしがみついた1年を私は知らない。


中だるみしちゃった2年生

前期の実技試験はバロック指定。何より苦手だったバロックとひたすら向き合う半年間で完全に心が折れた。

後期のロマン派で何弾くかばかり考えて、苦手意識の強いバロックから逃げ続けた半年間。思い返すとさすがに呆れる。

興味が無さすぎて、スカルラッティの名前をなかなか覚えられなかった。今でもたまに「スパゲティみたいな名前の作曲家」という認識になる。


後期はまたショパンだった。

《ポロネーズ 第1番》

ノクターンほどでは無かったけど、この曲にものめり込んでいたなぁ。あまり弾かない曲調が楽しかった。

沢山の出会いがあった1年間だった。
好きな人が出来たり、誰かに音楽を届けたいと思えたり、
4年間で1番楽しかったのは紛れもなくこの1年だろう。


ソルフェージュは相変わらず苦手だったけど、やっぱり和声学だけは大好きだった。
難しければ難しいほど、もっと、もっとって追求したくなった。ただ、出来ないことがあるのが嫌だった。


うつ病になってしまった3年生


出会いもあれば別れもちゃんとあって。
大好きな人と離れたことがきっかけでうつ病になった。

大学に行けない日があったり、音大に来たことさえも後悔した日があったり、ドン底の毎日だった。

それでも、この大学に来なければ出会うことすら出来なかった、と思うと、自分のやれることをやろうって思えた。

好きな人の誕生日に弾いたASIAN KUNG-FU GENERATIONのソラニン。

私にはピアノがあるって思いたかった。覚えていたかった。

自分に出来ること、自分にしか出来ない届け方が音楽だった。それを教えてくれた。

試験そっちのけで、誰かの為に弾いた。人のためにピアノに向かった。これほどの幸せがあるだろうか。
何度もそう言い聞かせて、泣いて、その度に音楽と、音楽をする自分を好きになった。そう思う。


ストレスで10kg近く落ちてしまった体重と筋力、体力では、今まで弾けていた曲が弾けなくなった。まさに挫折。
思うように動かない体が怖くて、試験曲の難易度は下がる一方だった。何よりそれが悔しかった。

離れられなかった。

《前奏曲 Op28-15 雨だれ》

出来る限りやった結果だった。こんなはずじゃなかったから、そう思わせないように感情を込めた。言葉を繕った。

“ 例え、どんなに小さな力でも続けていれば大きな成果が得られる。「雨だれ石を穿つ」という言葉があります。この16年間、泣きながらピアノに向かった日もありました。私の涙は無駄では無かったし、辛い練習の日々はいつか硬い石にも穴を開けると思っています。 ”


お世話になったピアノ教室の発表演奏会に向けて書いた私のアナウンス文章。
好きな人が選んでくれたドレスに、好きな人がくれたネックレス。これ以上ないお守りに身を包んで、立った舞台。

伝えたかった。私と同じ道を進まないで欲しかった。

音楽に夢を見る若人が、挫折ごときに砕かれて、夢を諦めるなんてことはして欲しくなかった。どんなに泣いても、好きにしがみついて欲しかった。

それなら、私が石を穿つ雨だれになろうと思った。
綺麗事だとしても、私の音で伝えたいものがあった。


込めたはずの感情に、まんまと私は食われてしまった。


折れてしまった4年生


5月末からの3週間の教育実習。
今まで以上に忙しい半年間だった。

目指していたはずの教員という道。「本当に私でいいのだろうか」とあれほど直面したことは無い。

私なんかに生徒を教える資格があるのだろうか。

いや、私だから、私にしか教えられないことを、話せない話をしよう。かしこまる必要なんて無い。

何度も自分を奮い立たせても、泣きながら帰る電車の中で「無理」の数を数えてしまった。

生徒の笑顔と、私に向けた先生!という声が救いだった。この子達のために、今折れる訳にはいかない。1人でも多くの生徒に音楽を伝えたい、楽しいって思って欲しい。

音大を目指す生徒の夢を壊したくない。楽しいって教えたい。音楽を追求すること、やれるとこまで、もっとそれ以上に、この深い音楽という海に身を委ねて欲しい。

それだけだった、本当に。

実習後の約1ヶ月で形にした試験曲。どこまでも私はショパンを追いかけていた。「弾きたい」を捨てていなかったから。

後期が始まると同時に、まず立てなくなった。

睡眠薬で眠って、泣いて目を覚まして、過呼吸を抑えてる間に一限が始まる生活を送った。
家からタクシーで大学に通った。

授業は何一つ頭に入らない。

レッスン前は震えが止まらなかった。先生に呆れられることが何より怖かった。優しさが「言っても出来ないから」と言われてる気がして怖かった。

そう思っても、どうしても動かない体は、とうとうピアノに触れることすら拒むようになった。

どうしようも無い吐き気と、勝手に溢れてくる涙、はやくなる呼吸。

音楽大学ピアノ科の学生として認めたくなかった。
「ピアノが弾けない自分」だなんて。

自分を奮い立たせるためにわざと作った、弾かなければならない環境。自分の首を絞めて、音楽を嫌いになるのに時間はかからなかったんだと思う。

後期、私が弾きたかったのはショパン。

憧れの《バラード 第1番》

さらに痩せた私の体と、作ってしまったブランクのせいで弾くことは出来なかった。悔しくて、自暴自棄で選んだ。

《樅の木》

それはもう弾く気にはなれなくて、好きになれなくて。

ある日先生に零した「頑張らなきゃいけないのに」って言葉と、不安だらけの私の涙に先生が言ってた

『大曲じゃない曲なんて存在しない』

私にとっては諦めて、レベルを落とした曲に過ぎなくても、音楽家として、演奏家として、私はどの曲も大事にしなきゃいけなかった。順位なんて付けてはいけなかった。

何より大事なことに気付けたはずだ。きっと、今から、これからだった。

とっくに限界だったんだろう。気持ちだけが先走りして、心も、体さえもついて行かなかった。

行けなくなったウィーンへの研修も、それでも弾けなかったピアノも、馬鹿みたいに詰め込んだ仕事も、大丈夫って言い聞かせて自分でも気付けないうちにとっくに溢れてた。限界だった。



飛び込もうとした。黄色い線を超えて。大きくて、速い、たくさんの命を乗せた四角いハコに轢かれてみようと思った。

一歩踏み出して初めて、もう限界だと気付いた。遅かった。
どうせならもうこのまま、知らないままでいたかった。

その日、私は母に地元へ連れ帰られた。それ以来、大学には行けなくなった。

長期欠席。留年、からの休学。

馬鹿馬鹿しいだろう。

病院の先生には『入院を視野に入れた治療を』なんて言われて、書かれたのは病院の紹介状。入院施設のある、地元の精神科を受診するようにって。


多分、私はこの日一度死んでる。


あれからもう4ヶ月になるけど、今でも気持ちは変わらない。諦めたくなかった、卒業したかった。

この春、卒業することに意味があった。何年先でも、とか意味なかった。どんなに辛くても頑張ってきたのは、皆と卒業したかったからで、ここで折れるはずじゃなかった。

私はまだ我慢出来た。まだ耐えられた。
いや、耐えられなかったからこうなったのか。


音楽と離れて、嫌でも考えてしまう将来のこと。
私の音楽の続け方。向き合い方。

一人で、孤独に自分と向き合うピアノは、私には重荷だったんだろう。そこが何より好きだったのに。
私に何が出来るのだろう。


せめて今はまだ、音楽家でいたい。ピアノが弾きたい、もう一度。まだ、何度でも。

これしかないんだって思うには十分の冷却期間だ。私にはピアノしかない。弾けないことが何より苦しかった。



あまりにくだらない。他人から見たら大したことない。自堕落な4年間だっただろう。言い訳ばかりで逃げてばかりで、得られたものなんて少ないのかもしれない。所詮、その程度なのかもしれない。

けど、私にとっては充実していた。悩んで、抱えていたものは決して大したことないものではなかった。自堕落?がむしゃらに、必死に、音楽に生きていた。言い訳も逃げもした。それでも私は音楽から目を逸らせなかった。得られたものばかりだ。その程度なんかではない、これからだ。

違うか?


私のピアノの音が誰かの心を打って、頬を濡らしたように。
私のピアノの音が次は私を救えばいいと思うよ。


4年間。長いようで短いあっという間の日々を、共に戦って支え合ってくれた仲間へ。

本当にありがとう、そしてお疲れ様。
私のことは心配しないで、どうかその先へ進んでくれ。必ず追いつく。いや、きっと追い越す。

私を呆れることなく支えて、これからを約束してくれた先生へ。

必ず戻ります。どんなに辞めたいと泣いても、ピアノを嫌いにはなれなかった。繋ぎ止めてくれたこと、私にはピアノがあると言ってくれたこと、心から感謝致します。


私のピアノで先生を泣かせてみせます!って
偉そうなこと言った約束も忘れてなんていない。


おかえりって笑って貰えるように。
音楽が、ピアノの前が私の居場所です。必ず戻ります。

誰にも踏み込めない自分だけのテリトリーで好き勝手する。
これが私の音楽だって胸張って、私が笑えるように音楽を辞めない。ここから離れない。


音大に来て良かった。本当に。
私の音がもっともっと、沢山の人に届けばいい。誰かの為にあればいい。


自分の音楽の形は、自分の生き方は、私が決める。
誰の言葉も、反論も、もう二度と聞き入れたりなんてしない。私だけのものだ。

無駄なことなんて何も無かった。
後悔をしても、泣いても、無駄な時間も努力も一秒だって、一瞬だってなかった。


私にピアノがあって良かった。出会えて良かった。



卒業、おめでとう。私も。
今日だけは、4年間頑張った私を褒めてあげよう。
大事な日だ、ちゃんと頑張ったよ、私。


皆と一緒に卒業出来なかった私。
もう弱音吐いて音楽から逃げるのもやめだ。




今日は卒業式
言い訳ばかり、逃げてばかりの弱い私からの


“  卒業  ”



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