自分のことを語ること(金川→細谷③ : 2021.04/12)

2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」のための往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは金川さんから細谷への3通目の書簡です。

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おひさしぶりです。
お返事いただいてから4か月も過ぎているなんてちょっと信じられないです。うかうかしていても、していなくても、時間はどんどん過ぎ去っていきますね。
お返事ありがとうございます。とてもおもしろくて、読みながらいろいろと触発されて、いろいろなことを思いました。

「にんげん研究会」のことは、今回のななめな学校のWSにもつながってくるなと最近改めて思っていて、細谷さんにもご参加いただいたのは本当によかったなと思っています。
「にんげん研究会」でひとつ問題(必ずしも悪い意味ではなく)になっていたのは、「本来プライベートなものとされている日記を、他人に見せる前提で書くというのは、しかもそれも自発的にではなくて、課題というか他人から依頼されて書くというのはどういうことか」ということだったと思います。

他人に見せる前提だと、書くときに他人を意識してトリートメントされた「よそ行きの言葉」になるということが生じやすくなっていて、僕や細谷さんは、できればそうではない「日記ならではの言葉」みたいなものにもっとふれたいという感想をもったということがありましたね(もちろんにんげん研究会の参加者の全員の日記がそうなっていると感じたわけでは全然なくて、日記ならではの言葉にふれていると感じられる日記もたくさんありましたし、そもそも「日記らしさ」とは何かを考え直すことができるとてもおもしろい経験になりました)。
自発的ではなく、課題に応えるために書く場合は、日記というよりも学校から宿題で出された「作文」に近いようなものになってしまう可能性を孕んでいるのだと思いました。できれば今回のWSでは作文ではなくて日記だと思われるようなものを参加者のみなさんには書いてもらいたいし、自分も読みたいと思っています。

ただ注意しないといけないのは、「日記ならではの言葉」というのは書く人によって全然ちがうわけで、僕からすると作文のように感じられるような文章を、誰に頼まれるでもなく日記としてひたすら書いている人たちがいても全然おかしくないわけですよね。細谷さんがメモで「本人がそれで良ければそれでいい 何でもありにしたい 自由にしたい」と書いているように、こちら側が思う「日記らしさ」を押しつけないようにすることはとても大切だと思っています。

今回のWSでの日記を他人に見せる前提にするかどうかは少し迷っていたところもありました。ただ、やっぱり今回は「見せる前提」にしようと決めました。「見せる前提」にすることで、「日記らしさ」が失われるのではないか、あるいは、それはもはや日記とは呼べないものになるのではないか、ということをなんとなく思ったりしていたのですが、日記というのは別にこうでないといけないとルールがすでにあるわけではないと思うので、誰か他人の目にふれることが前提とされた日記ということで今回はやりたいと思っています。(ウェブ上にブログとして発表されている日記というものがすでにありますね。)

森栄喜さんの「自己と他者の境界を探り…(略)…ともすれば消えてしまいそうな小さな声を、小さな声のまま、公共に開き、そこに生まれる親密性を可視化する試みともいえます」という言葉はものすごくいいですね。今回のWSでやろうとしていることがここですでに語られていると思います。ただ、おそらく今回の日記と写真のWSでポイントとなるのは「親密性」というよりも、むしろ「孤独」という言葉で表されるようなことだと思っています。孤独ということ(人間は一人であるということ、自分と他者とのあいだには境界があるということ等々)は必ずしもネガティブな意味を伴うことではなくて、それは人間の所与の条件であり、自分の孤独や他人の孤独にふれることは、人間という存在にとってとてもポジティブな意味をもつことではないかと思っています。「孤独」ということについては、もう少し時間をかけて、WSを通して考えたいと思います。

Barbara Hammerというアーティストの写真集を一年ほど前にたまたま買って、数日前には映画も見れて、ここ最近とても影響を受けているのですが、Hammerの「Tender Fictions」という映画の冒頭に「自叙伝を書きなさい。他人に任せたりしないで」というような言葉がありました。この映画はHammerの自叙伝であると同時に、自分について語ることについての映画でもあるのですが、レズビアンであるHammerはみずからの手で記録を残さないと自分たちの存在そのものがなかったことにされてしまうということを痛感していて、自分たちの存在が抹消されることに抵抗するために映画を作っていました。

 「自分のことを語りなさい。他人任せにしないで」という言葉は、今回のWSのスローガンのひとつになるような気がしています。今の私は、個人的な他の誰かにとっては取るに足りないどうでもいいことを記録しておくことを、できるだけ肯定したいのだと思います。それは私が、個人的で他人からすると読むに値しない、読んでもおもしろくもなんともないような記録であってもできるだけたくさん残されるべきだと思っていて、それを実際に読みたいと思っているというのとはちょっとちがって、ものすごく大量に記録が残されようとも、僕自身がアクセスできるのは物理的に限られているし、自分にとっておもしろいと思わないようなものにわざわざ時間をさきたいとは思えないときもあります。また「どんな記録であっても、それに励まされる人がどこかに必ずいるんだ」なんてふうに言い切ることも自分にはできません。ただ、実際に残された記録が他人にとって意味のあるものになるかどうかはさておき、「自分の記録が残ってもいいんだ」「残ったほうがいいんだ」と思える人が増えたほうがいいにちがいないとは思っていて、それは絶対そっちのほうがおもしろいだろうと思っています。

写真についてのご質問に答えますね。どうやってセレクトしているかというのは、以前にも少しお話したように作品によって変わってくるので一概には言えないのですが、代わりにというか、最近思ったことについて書かせてもらいますね。
今、「声の棲み家」というグループ展に参加していて、僕は自分の共同生活を撮影した作品をはじめて展示しています。展示は共同生活の様子を写した写真と、そのような共同生活に至った経緯やそこに至るまでの自分の思い、生活しながら変化してきている自分の考えなんかを書いた文章によって構成されています。今回展示を構成してみて思ったのは、文章のほうは、こういう文章を書いてそれを他人に見せることで自分が何を伝えようとしているのか自分でも把握できていると思えるのですが、写真のほうは、こういう写真を他人に見せるということが一体どういうことを伝えることになるのか、見る人にどういう意味を与えることになるのか、自分でも把握しきれていないということでした。なので、今回の展示においても、具体的になんでこの一枚を選んだかは説明できるのですが、今回の選んだ写真の総体が一体何であるのかはまだ把握しきれていない状態です。写真というのは、撮っている側、見せる側にとっても異物であり続けるものなのだと改めて思いました。
 質問とはだいぶちがう話になってるかもしれませんね…。「どうやってセレクトしているか」ということに具体的に答えると、パソコン上で気になった写真はとりあえずプリントしてみて、それを並べてみたり手に取って眺めたりしながら、どの写真を組み合わせて見せるべきかを考えていきます。この作業を繰り返すことで、自分が写真で何をやろうとしているのかがだんだんと見えてくるという感じです。プリントしてそれを見るという作業が、その後の撮影に影響を及ぼしてもいきます。
 細谷さんが前回書いていた「手を動かしながら考えることができない媒体」という写真の定義は、撮影の瞬間については当てはまることであり、たしかに写真のひとつの特質だと思います。ただ、写真というもの、とくに数枚の写真によって構成される写真の作品というものは、撮影の瞬間によって完結するわけではなくて、撮られた写真をよく眺めたり、撮った写真を眺める経験がのちの撮影に影響を及ぼしたり、またたくさん撮られた写真から選ぶという行為も含まれていたり等々で、いろんな要素が入り混じって来るのだと思います。写真というものがものすごくシンプルなようで、それについて語ろうとすると途端にむずかしくなるのは、こういうところから来ているというのはあると思います。

 日記のことや自分について語ること等々についてはもっと話したいことがいろいろあるのですが、WSの募集要項もまもなく公開されるのでそれに間に合わせるためにもとりあえずここで切り上げさせていただきますね。自分でもまだまとまりきれていないことをとりあえず書きつけているので、読みにくいかと思いますがご了承ください!

 WSの開催が正式に決まって本当によかったです!僕自身、とても楽しみにしています。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

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2021年4月12日
金川晋吾

■ひとつ前の書簡はこちら

■この書簡に対するディレクター細谷の返信はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)


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