WS内容について(細谷→金川④ : 2021.04/22)

*WSの内容について記載しています。参加希望の方は、是非こちらをご一読頂きたく存じます。
2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」のための往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの4通目の書簡です。

画像1

金川様

いよいよWSの参加者募集が始まりました。今回は少しだけWSの内容について言及しようと思います。
それはWSに興味を持った方に対しての情報がやや乏しいと感じているからであり(これまでの往復書簡を読んで下さっていれば色々感じ取って取って貰えるとは思うのですが…)、今回のWSが3時間×5回の長丁場かつ、参加人数が10人と限られているので、「一回目の授業に参加してみたら、思っていたのと全然違った」ということを極力無くし、参加者全員にとって有意義なWSにしたいと思っているからです。

さて、改めて募集案内を見ると、WSの内容としてわかることは「写真と日記を使って2021年の夏の記録をつける」ということだけかと思います。まあ、それ以上でもそれ以下でもないといえばそうなのですが、もう少し補足したいことがあります。
■一つ目は、授業と授業の間の2週間で参加者には各自、日記と写真をつけてもらいたい(授業のない日も(毎日ではないにしろ)このWSのために時間をとって貰う必要がある)
■二つ目は、その日記と写真は公開される
ということです。
WS参加者には、この二点を事前にご理解頂いたうえで、参加してほしいと思います。

WSが開催される6/5~7/31までの間、基本的に毎日何かしらの記録をつけることを求めるのか、否か(可能な限りコンスタントに記録をつけたほうが面白いとは思いますが、それはかなり大変であることも理解しています)、また、書いた日記と写真は逐次WEBなどで公開していくことにするのかWS終了後にまとめて体裁を整えて公開するのか等はまだ検討の余地ありと思うのでここでは明確にはしませんが、いずれにしてもWSに参加する10人が、同じ2か月間に何を感じ、どう過ごしたのかの記録が残ることにとても価値があると感じています。

2021年夏が特別なのか、特別でないのかはわかりません。社会的に見れば、コロナによる様々な変化の途中にあり、東京五輪も開催されそうで、「わかりやすさ」のある年ですが、社会状況に関係なく、一定期間を様々な人たちがそれぞれの視点で記録し、それらが集積されるということに、社会学的な面白さはあると思います。そして、その内容に社会状況が反映されようとなかろうとその面白さや価値に変わりはないと思います。

しかし、これは参加した10人の記録を第三者が客観的に見たときの視点での「おもしろさ」です。

では、WS参加者にとっての面白さとは何なのでしょうか。
今回のWSは金川さんという「写真家」のWSではありますが、具体的な「写真のテクニック」を教えようという内容ではありません。そして授業で課題が出て2週間で作業し、次回の授業で講評・指導するというような、ある完成形に向かって回ごとにステップを踏んでいくというスタイルでもありません。
授業は毎回、2週間でそれぞれがつけた日記や写真に感想を言い合ったり、その内容をテーマに話し合ったりすることになりそうですし(そういったことをきっかけに金川さんが撮影の時に意識していることや近年の興味・関心などに話題が進み、金川さんの作品制作の一端に触れられるということはあるでしょうが)、このWSに参加して得られるものを「わかりやすく」提示することは難しいように思います。
ただ、このWSに参加すると、自分自身と向き合うことになると思います。そして、その中で色々と考えることで、それぞれに得られるものはたくさんあると信じています。
また、前回の書簡で金川さんは「『どんな記録であっても、それに励まされる人がどこかに必ずいる』とは言えない」と書かれていましたが、「どんな記録であっても、書いた本人は、いずれその記録に励まされる」のではと思っています(「励まされる」までは言えなくとも、後々振り返ってみたときに意味のあるものにはなると思っています)。


画像2

さて、実は私も今年の1月から日記をつけてみていました。
この写真と日記のWSに参加すると何が起きるのか、私自身も全く想像が出来ていなかったからです。
気が向いたときだけつけるとどのくらいの頻度で書くことになるのか、意識的に毎日つけようとするとどのくらい大変なのか、など実践しながら体感してみたかったのです。
結果、気が向いた時だけつけようとすると3日連続で書くときもあれば1ヵ月も間が空いてしまうときもありました(2月は丸々サボってしまいました…汗)。そこで3月は頑張って毎日つけようとしたのですが、平均すると2日に1回のペースでしか書けませんでした。一方写真は、外出した日はいくらでも撮れるし、終日自宅作業の日は撮るものがなく慌てて夕方散歩に出かけたりもしましたが、それなりにコンスタントに撮ることが出来ました。金川さんが以前の書簡でおっしゃっていた様に写真はシャッターを押してしまえば「完成」するわけで、(それを自分が良しとすれば)この瞬間にPCの横にあるスマートフォンのカメラを起動して、部屋のどこかに向けてシャッターを押せば今日のノルマはこなせてしまうので、文章を書くよりも手軽ではありました。

画像3

日記には基本的には身近なこと(その日聴いた音楽のことや読んだ本のこと、虫歯の治療のことや少しだけ政治についても)を書いていましたが、もちろんその最中には今回のWSのことを考えていて、何かしらの気づきがあれば日記に書いていました。
例えば、「写真と文章の主従関係」についてや「自分が何を書くか」について。「誰にも読まれない日記と、読み手を意識した文章と、公開する日記の違い」についてなどです。

これらについて、この書簡に具体的に色々書いたのですが、読み返してみて、「まずはWS参加者にはあまり先入観を持たずに日記や写真をつけてほしいが、これらの文章はそれを阻害してしまう恐れがある」と思ったので、消しました。保存はしてあるので、ある程度WSが進んだタイミングでまた触れられたら良いかなと思っています。


画像4

これは直接密に打ち合わせしなければならないところですが、私の現時点の気分としては、なるべく自由な内容のWSにしたいと思っています。
例えば、以前金川さんから書簡の中で「写真を見ながら書く日記」というというお話がありましたが、あまり制限を設けずに、まずは参加者が書きやすいように書くのが良いかなという気分です。手掛りがないと何をしていいかわからないという参加者に「一枚写真を撮ってみて、その写真について日記を書いてみる」というやり方を提案するのはとても良いと思います。ですが、そこに制限を設けない方が「写真と日記(文章)の違いや関係性」についての気づきが多いように思いました。


「自由な内容のWS」ともつながるのですが、私は今回のWSに、普段から文章をよく書く人にも全く書かない人にも参加してほしいですし、カメラで写真を良く撮る人にもスマホのカメラ機能しか使ったことのない人にも参加してほしいと思っています。また同様に、年齢層も職業も趣味嗜好も様々な人に参加してほしいです。参加者を我々が選ぶことは出来ませんし、応募者多数になっても公平に抽選ですので、意図的に選ぶようなことは出来ないのですが、結果として参加者に多様性があったら嬉しいなと思っています。

勿論、こういった形のWSですので、多少なりとも似通った興味を持つ人が集まるとは思いますが、前提としての共通言語が少ない状態の方が面白いのではないかなと思っています。それはSNS社会かつコロナ禍で、『「同じ興味」を持ち「共感」によって引き合うコミュニティ』が増えている気がしているからで、そういった「共感」(というか踏み込んで言うと「共感で溢れていて、無自覚的に共感を強要する場」)に抵抗があるからです。また、もっと言うと日常の中で「そんなに簡単に分かった気になって共感しないでほしい(、何もわかっていないのに)」と思う場面もあります。
共通の趣味や興味があったり、共通言語を有していたりすると、直感的な共感に流れがちで本質的な理解が進まない気がします。今回のWSが、それぞれ違う考えを持った人たちが集まり、互いに理解しようとする場(理解しようとする姿勢は必要だが、共感する必要はない)となったらとても嬉しいなと思っています。なので変な言い方ですが、写真にあまり興味がなくても、金川さんのことを知らなくても全然構わないので、「記録をつける」ことに少しでも興味を持ったら是非参加して貰いたいですし、中高生や大学生など若い層にも参加してほしいなと思っています。


画像5


先日、「声の棲み家」を見てきました。とても興味深いグループ展でした。金川さんは自身の共同生活の様子を写真と文章で発表されていて、まさに「自分のことを語る」内容であり、今回のWSとも通底する内容だなと感じました。
私は金川さんの共同生活の在り方を理解できるし、受け入れられるけれど、共感は出来ません。「共感できません」というと批判しているように感じられるかもしれませんが、そういうことでは全くなくて、むしろ、「同様の状態を経験しているわけでもないのに、軽々しく「共感できる」などと言えない」との考えからくる言葉です。
先程「理解できる」とは書きましたが、これも、「金川さんの共同生活の在り方を受け入れられる」という程度の「理解できる」であり、今回そのことを展示しようと思うに至った理由は、何となく展示を通して「理解できた」気分になっていますが、金川さんがこの共同生活に至った心情については、展示からだけではまだ理解しきれていません。
こういった「直感的に共感」できない事象について、語り合い、理解しようとするところに人と人が付き合う面白さがあると思います。そして、理解しようとした結果、「けれどやはりわからない」でも良いと思っています。私は、直感的に「わかる!」とか「嫌い!」とか「いいね!」とか思うことに対しての不安というか疑念があるんですね、きっと…(ただ、ある部分ではものすごく自分の直感を信じてもいるのですが…)。


前回の書簡で、今回のWSでポイントとなるのは「親密性」よりも「孤独」と表されるようなもの、とのコメントがありました。その箇所をはじめに読んだとき、森さんの言う「親密性」と金川さんの言う「孤独」は割と近いもののように感じました。それは森さんが言わんとしているのも、公共に開いているものは「孤独」であり、開いた結果として、受け手との間に「親密性」が生まれる(もしかしたら、孤独を開いた側にレスポンスはなく、受け手が勝手に、開いた側に「親密性」を感じるというだけの一方通行なものかもしれません)ということだと思ったからです。
ただ、今回この書簡を書きながらいろいろと考えて、金川さんがわざわざ「孤独」と訂正したことに意味があるように感じました。パーソナルなことを公共に開くときに、共感や理解を求めて開くケースもあるとは思いますが、今回のWSで書かれる日記は、見知らぬ第三者の「共感」を求めて書かれるものではないですよね。金川さんの声の棲み家での展示も「共感」を求めて発表したというわけでは無く、金川さん自身の中で、そのことについて語るにふさわしいタイミングが来たので発表したという、ただそれだけのことのように感じました。
そういった、「孤独」を公共に開いた結果がどうであれ構わない(そこに親密性が生まれようとも、孤独が際立とうとも)というスタンスを表明するのに、「親密性」という言葉に訂正を入れて頂いたことがとても重要に感じられたのです。
(ちなみにですが、バーバラ・ハマーが「自分のことを語りなさい」というとき、それは「声を上げ、第三者に対し自分の存在を表明しなさい」という意図と、自分のために自分のことを語りなさいという「自省(自分と向き合う)」を促す意図のどちらもが含まれている気がします。森さんのケースは、何も求めずに(自分と向き合った)小さな声を公共に開いた結果、たまたま親密性が生まれたというケースのように思います)
このあたりのことや「孤独」については引き続き考えていきたいです。

今回はこのくらいにしておきます。
また近いうちに諸々打合せしましょう。参加者募集が始まり、気候も春めいてきて、いよいよだなと気持ちがWSに向かっています!(今までも向かっていないわけではもちろんなかったのですが、今まで以上に!笑)
引き続きよろしくお願いいたします。

画像6

P.S. 以前、映画館で見る映画があまり得意ではないと書きましたが、昨年末に「ばるぼら」と「吉開菜央特集 Dancing Films」を渋谷で、最近は「JUNK HEAD」を日比谷で見ました。いずれも創作意欲が掻き立てられる内容でした。バーバラ・ハマーも是非見てみたいですが、どこかの映画館が特集を組んでくださるタイミングでないと難しそうですね…。

2021. 04/22 ななめな学校ディレクター細谷


■ひとつ前の書簡はこちら

■次の書簡(WS一回目のレポート)はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

▼千の葉の芸術祭WEB

▼ななめな学校WEB


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?