いくつかのこと(細谷→金川③ : 2020,12/07)

2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」のための往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは細谷から金川さんへの3通目の書簡です。

金川様

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お久しぶりです。
なんだか時間が空いてしまって、書くことを見つけるのが難しくて(あるいは、書きたいことが多すぎて)なかなかこの往復書簡に着手できませんでした。
金川さんから頂いたお返事にのみ応答すれば、書くべきことはすぐに見つかるのですが、このやりとりでは、普通に生活していたらこぼれてしまうような、取るに足らない感情を残しておいた方が良いような気がしています。
前に金川さんにお手紙を書いたのが2月末、あれから半年以上も時間がたってしまいました。コロナの自粛生活などがあったせいで、時間の感覚が分からなくなってしまっています。

少しだけこの間の生活を振り返りますと、緊急事態宣言下では大人しく家におり、規則正しい時間に三食とって夕方にはランニングに出かけるなど、それまでに比べ健康的な生活をしておりました。一方、なぜかやることは山積みで、ななめな学校関係では後回しにしていた「ななめな学校4」(今年の年始に開催しました)のレポートをまとめてHPに公開したり、新しい試みの作戦会議をリモートでしたりしていました。
 
 あっという間にリモートでのやりとりが普通になったことで、リモートのメリット・デメリットがあらわになったと思いますが、金川さんにお誘い頂いた「にんげん研究会」※1に参加させて頂いたことは、リモートが普及したメリットを享受できた時間でした。ずっと忘れていたのですが、研究会に参加しながら書いた短いメモが残っていたので、ここに記します。
学生たちの発表を聞いて
「僕らのWSでは言葉をトリートメントしたくない
『日記』→ぶっ壊れてていい 本人がそれで良ければそれでいい
何でもありにしたい 自由にしたい」
と書いていました。
それに続いて、自分がどんな時に日記を書くのかをメモしていました。
「★いつ「日記」を書きたくなるのか。
日常の中でふとした気づきやちょっとした感情の動きがあった時のことを記す
雨の匂いがしたことや夕焼けがきれいだったこと。あまり得意ではない友人の得体のしれない「嫌な感じ」の正体がわかってしまったこと/ 得意でないと思っていた人が実はお互いコミュニケーションが下手なだけだと気づけたこと。雑誌で見つけた忘れたくない何気ない一言など。
誰にも言えず、どこにも書けない、いら立ちや不満を書く。身の回りの圧力や理不尽なこと、政治的な文句をひっそりと記しておく。
誰に言うわけでもないけれど、急に気になって思い立って調べたことをメモしておく。
行った場所や経験を備忘録としてメモしておく。」

最後に
「結局誰かのためでないと文章など書けない。それは「未来の自分」のためかもしれないが、強く書くためのモチベーションを保っておかなければ書くことは難しい。
とすると、自分は無意識的に特定の「誰か」に向かって文章を書いている。なので、時間がたってから見返した時に自分で思い出せる感情を残しつつも、ある程度には形作られ、整えようとしている。」
とありました。
学生の発表を聞いて、「日記」とうたうからには、文章として成立していなくてもいいからもっと好き勝手に心の機微を書いたものが読みたいと望みながら、省みると自分だって「文章」として残す時点で他人に読まれることを想定してる(だから、全ての本心をさらけ出してはいない)のだ、という当たり前の気づきでした。

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人と直接会う機会が減り、なかなか難しい状況の中、クラウドファンディングで支援していた森栄喜さんのLetter to my son(フォトエッセイ)が届きました。本とともに、森さんからの直筆のお手紙が同封されていました。文言は他の支援者と一字一句同じだとしても、文面がプリントでなく、全て手書きで書かれていたことに温かさを感じ、手にした時にグッとくるものがありました。お会いしたことのない方からの手紙に心動かされたのは、緊急事態宣言の最中で、人とのフィジカルなやりとりが薄れていた影響が間違いなくあると思います。そのことにあまり自覚的では無かったのですが、人と触れ合わずに生きていると失われるものがあるのだなと、強く感じました。


森さんのクラウドファンディングに参加したのは、Letter to my sonという作品が今回のWSの参考になるかもしれないと感じたからです。それはクラウドファンディングのサイトに「近年のパフォーマンス作品では、自らの体験や記憶を交えた「詩」の朗読や、他者との共演により、自己と他者の境界を探り、身体的な対話を試みてきました。それらは、ともすれば消えてしまいそうな小さな声を、小さな声のまま、公共に開き、そこに生まれる親密性を可視化する試みともいえます。」とあったからです。
金川さんが行っている「日記を読む会」も「自己と他者の境界を探る」「小さな声を、小さな声のまま、公共に開く」という点は共通しているのかなと思っています。

実はリターンとして本が届くまで、森さんの日記と写真をまとめた本だと思い込んでいたのですが、届いた本を読むと、それもあながち間違っていないように思いました。
森さんが初めてNYに降り立った1999年から現在までの記憶を、様々な時制を行き来しながら、時には語り手を変え、全体像が明確になることを巧妙に避けながらも輪郭は立ち上げ、一つの記憶をとどめようとしていると感じました。
前回金川さんから頂いた返信の中に「写真を見ながら書く日記」というキーワードがありましたが、昔書いた日記を読んでそのための写真をとったり、昔の好きな写真を引っ張り出してきてその時のことを思い出して文章を書いてみたり、はたまた今日あったことを写真と文章で記録したりと色々な時制がまじりあったものがWSのひとつの成果として出来るのも面白いかもしれない、と森さんの本を読みながら感じていました。
こういった色々な手掛かりがあったほうが参加者は生の声をしたためやすいんじゃないかとも思いました(やっぱりどうせなら着飾らない言葉を読みたいので)。

また、どうやら私は写真にしても文章にしても、そこに内包される「時間」に興味があるのだと改めて思いました。これは、私が建築と向き合っていることと関係があるのかもしれません。


ここから少し、前回の金川さんとのやり取りに触れたいと思います。
最初の「時間を内包する/瞬間を切り取る」という話なのですが、私が「写真は瞬間を切り取る」という印象を持つ理由は、写真が「手を動かしながら考えることができない」媒体であると考えるからです。文章や絵画は手を動かす前に大まかな完成形のイメージはあったとしても、手を動かしながらアイデアが変わっていくことが往々にしてあるというか、絵画であれば「こういう絵を描こうと完成形をイメージする→描き出す→没頭して描く→離れた位置から見て、修正点を見つける→また描く→修正を繰り返し、どこかの時点で完成を迎える」というプロセスをたどると思います。ここで重要なのが、「修正点を見つける」の「修正」には「完成イメージに近づけるための物理的な修正(デッサン時にフォルムを修正するような作業)」も、「(混ぜ合わせて出来た思いがけない色味や、塗りたくった絵の具など、描き途中の現状にインスピレーションを受けたことによる)完成形のイメージの修正」も含まれるという点で、この後者を許容している(というか、その作業をせざるを得ない)こと、「作りながら完成形が変わっていく」ということが、私が絵画や文章は「作品に時間が内包される」という印象を抱く理由です。
それと比較すると、スナップショットのような写真は「あっ」と思った瞬間にシャッターを切れるかという一瞬の勝負なのではないかと思うのです。そしてそういった媒体は他にないように思います。
勿論、撮影する側でコントロールできる対象(建築やファッションフォトのモデルなど)をとる場合は「撮影→確認→アングルの修正やモデルへの指示→撮影」と「撮影しながら考える」状況はあると思いますが、金川さんが撮られている写真はそういった類ではないように思います。

一方、写真は1枚を撮るのに時間がかからない分、その気になれば短い時間でたくさんのカットを残すことができると思います。となると気になるのが「どうやってセレクトしているのか」という点なのです。
セレクトの仕方に興味があるのはもう一つ理由があって、それは以前何かのインタビューで川内倫子さんが「写真集にしても展覧会にしても全体のトーンや流れを考えながら写真を選んでいき、ある程度選んだ時点で『全体の構成を考えるとこういうニュアンスだったりトーンの写真が必要だな』と気が付いて、そういった写真を再び撮りにいく」という趣旨のことを話されており、とても印象に残っているからです。
無理やり時間の話と接続すると、このようにしてつくられた川内さん写真集には、様々な時期に撮りためたものをある時点でセレクトして編集したのとは異なる「時間」(=自分が撮影したもの/それに呼応して再度撮影したものが併置されるなど一連の流れのなかでのアイデアの変化が内包されているという意味での「時間」)が含まれているのかなと思います。


今回はわからないなりに「写真の特性」について考えてみて、それは「手を動かしながら考えることができない媒体」であることだと定義してみました。
わかりやすい質問形式でないのでなかなか返答難しいと思いますが、金川さんのご意見貰えますと嬉しいです。


ちなみに返信を怠っている間に読んだ
・IMA vol33 長島友里枝さんの「女性のポートレートレタッチと美の基準について」のエッセイ
・大森克己さんのインスタグラムへ投稿「写真がうまいとはどういうことか」
・小林エリカさん著書「親愛なるキティーたちへ」
・「仕事本―私たちの緊急事態日記」
等についても金川さんと色々お話ししたいと思いましたが、これらはお会いできたときに飲みながらでも。

最後に、今年を振り返ってみるとそれなりに活発に動き、仕事の成果もあったのですが、心情的には何もできていないというか、ものすごく停滞していた気分でした。それは来年以降の未来にも今のところあまり希望が見えていないからかもしれません。そんな気分のなか手に取った川内倫子さんの「as it is」の美しい写真と、一番最後のページの言葉にとても助けられました。川内さんが「長い間知らずに生きてきた」と記しているその瞬間を、私はまだ知らないこと。そして、その瞬間に続くまでの日々を「ずっと曇天続きだった」と表現されていること。
今、私が曇天続きに感じてしまっているこの日々も「その日」に繋がっているのだと思うことが出来ました。
「as it is」で写真の隙間に忍び込む言葉たちは、ある意味では日記と呼べるでしょうし「as it is」という作品自体がとてもパーソナルな作品だと思います。今回、そういったパーソナルなもののもつ強さを改めて感じ、来年WSの内容をまとめたブックレットを手に取る瞬間を夢想し、(社会状況次第なのでどうすることもできないかもしれませんが)何とかしてWSを開催したいなと再度強く思いました。

引き続きよろしくお願いいたします!

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写真は内装工事着工前の真っ新な現場と
仕事で行った高知県の仁淀川の朝焼けと
「as it is」を手に入れたときに思わず身の回りにある美しいものを机の上に並べてみたときです。

2020 12/07 ななめな学校ディレクター 細谷

※1 「にんげん研究会」:「文化」や「地域学」を学ぶ鳥取大学生らといっしょに、"にんげん"をテーマに研究する集まり。今年はオンラインで開催されており、コロナ禍の物理的に繋がれないなかで、新しく出会いなおしたものなどについて参加者が「日記」を書き、発表している。金川さんはゲストリポーターを務めている。

■ひとつ前の書簡はこちら

■この書簡に対する金川さんの返信はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)


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