コロナ後の世界で(金川→細谷② : 2020,07/25)

2021年度開催の ななめな学校 連続ワークショップ における 金川晋吾さんの授業「夏への扉 日記をつける、写真をとる」のための往復書簡で、金川さんとななめな学校ディレクター細谷でやり取りしています。
これは金川さんから細谷への2通目の書簡です。

細谷さん

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 お返事ありがとうございます。このお返事をいただいた直後に、オリンピック・パラリンピックの開催延期が決まり、それに合わせて千の葉の芸術祭も、このWSの企画も延期になることが決まりましたね。ただ、このような状況においても、「ゆっくりとでいいので、この往復書簡は気長にやっていきませんか」というご提案を細谷さんからいただいたのはうれしかったです。気長に、ゆっくりとつづけていきましょう。
 返信をいただいてから、あっという間に時間が過ぎて7月ももう終わろうとしています。僕は4月5月はほとんど出かけずに家にいて、本を読んだり写真の整理をしたり文章を書こうとしたりして過ごしていました。6月になってから少しずつ仕事や企画がまた動き出して、外に出かける機会も多くなってきました。外に出かけるようになってやっと、コロナというものが自分の生活にも本当に、物理的にも心理的にもいろいろと影響を及ぼしているのだということを実感しはじめています。人が集まったり、話したり、接触したりすることがよしとされないというのはなかなか厄介ですね。でも、こういう状態にも次第に慣れていくのかもしれませんし、とりあえず長い目で見て、自分に負荷をかけずに過ごしていきたいものです。
 前回の僕からの返信をとても丁寧に読み込んでいただきありがとうございます。細谷さんからいただいた問いかけに答えてみますね。

これを読んだときに私は、後半の「完成していない~」の部分を捉え、「文章は時間を内包するが、写真は瞬間を切り取る」ということなのかなと考えました。

これはたしかにそうだと思います。ただ、「瞬間」と言っても、それは幅をもたない点のような時間のことではなくて(点としての時間というのは観念でしかないと思うのですが、その一方で、ある幅をもった時間というのはイメージしやすいような気がするけれども、少し考えてみると実はこれも観念に過ぎないのかもしれないという気がしてきますね)、瞬く間、とても短い時間という意味であって、つまりそこにも時間の幅は存在しています。細谷さんも長時間露光の話をされていましたが、手持ちでパシャリとシャッターをきるときでも、実際にはシャッターが開いている時間の幅が存在しているわけです。ただ、出来上がった写真は動かずに静止しているので、「瞬間を切り取った」という印象が強くなるのだと思います。
「完成していない写真はない」という話についてですが、かいている途中の絵や文章があるのと同じようには、写している途中の写真というものはないということです。もし本当は1時間シャッターを開きっぱなしにしておくつもりが、2秒でシャッターが閉じてしまってほとんど何も写っていなかったとしても、描かれている途中の絵にまだ描かれていない部分が存在しているのと同じようには、まだ露光されていない部分というのは存在していなくて、イメージとしては「完成」していると思います。
 写真にはある幅をもった時間が必ず内包されているが、イメージとしては静止したものになる。ただ、その静止したイメージを見るとき、人は必ず持続した時間のなかで見ることになる。今書いたことは、ものすごく当たり前のことを改めて言葉にしただけであり、だからなんなんだというのはうまく言えませんが、でも、写真において当たり前に起こっていることは実はけっこう妙なことなのだろうと思います。

一方、写真はその瞬間にしか存在せず、シャッターを押すタイミングを逃してしまったら、二度と同じ写真は撮れないと思います。しかし、だからこそ見返した時に、その写真を撮った時の心情が明確に思い浮かび、その感情に嘘がつけないと感じました。
今まであまり考えたことが無かったのですが、今回の期間中に撮った3枚(せっかくなので長野で撮った写真(fig3、コロナで閉鎖中の小学校越しの善光寺)もお送りしますので、そちらも含め3枚)はほとんど無意識的(意図していたわけでなく、瞬間的に急遽思いたって撮った)だったのにも関わらず、見返すと撮った瞬間のことやその際の心情がクリアに思い浮かび、自分でも驚いています。
上記の「2週間の振り返り」に綴った「思い返すのが難しい小さな心の動き」をまさに正確に思い出させるものだったからです。

「写真が瞬間を切り取るものであり、だからこそそれを見たときに撮ったときのことやその際の心情がクリアに思い浮かぶ」というのは僕もよくわかります。そういうことはたしかにありますよね。
でも、その一方で、必ずしもいつも写真が何かを思い出させてくれるわけではなくて、自分でもなんで撮ったのか、いつどこで撮ったのかわからない写真というものもあります。あと、時間が経つにつれて、写真による記憶の喚起のされ方が変わってくるということもありますよね。記憶というものは本当に複雑なものなので、写真と記憶との関係というのも一概に言えるものではないのだろうなと思います。ただ、写真と記憶にはおもしろい関係があると思いますし、細谷さんが経験したことはとても興味深いです。おそらく、写真と記憶との関係は一般化できるものではない個別的なもので、その個別性にこそおもしろさがあるのかなと思います。

思い出したからといってその内容をここに記すのは憚られるものがあります。それは思い出されるものの中に多分に負の感情も含まれているからです。きっとWS参加者も「最終的に他人に見られる可能性のある日記」と言われると赤裸々に心情を表現するのは難しいような気がします。
けれど、私にとって「無意識的に撮った写真がこれほどまでにその瞬間の心情を思い起こさせるのか」ということは、今日この文章を書くことによって痛感させられた大切な気づきであり、そのことに気が付いたというメモが今日の日記です。メタ的ですが。
このまとめ方は少しずるいかもしれませんが、参加者は参加者それぞれのやり方で、それぞれの「日記」をつければよいのかなと思っています。

細谷さんが書いてくれたものを読んでいるうちに、今回のワークショップを「写真を見ながら書く日記」みたいなテーマでやってみたらどうなるのだろうという想像が膨らみました。僕がこれまで作品として発表している日記は、ほとんどこの形式になっています(写真集「father」に入っている日記や、個展「長い間」で配った冊子のなかに入っている伯母についての日記、また晶文社のウェブサイトに掲載しているNHKに取材されているときの日記等々)。これをワークショップとしてやった場合にどうなるのか。このことはもう少し寝かせてゆっくり考えたいと思います。

ちなみに、金川さんのおっしゃる文章と写真の違いについて、「完成していない文章」はあるが、「完成していない写真」はないという部分は私の認識でほぼあっているかと思うのですが、「まちがっている文章」というのはどのような文章を指していますか。もしかしたら私はこの「まちがっている~」というニュアンスを正確に掬えていないかもしれません。

まちがった文章というのは、けっこうそのままの意味で、誤字脱字があったり文法的におかしかったりする文章のことを言っていました。僕はなんとなく考えていることをざっと書こうとすると、文法的に整合がとれていない文章になることがほとんどなので、それを整えるということが必要になります。なので、時間がかかります。
ただ、文章におけるまちがいというのは、おそらくもっと広い意味で考えることができる問題だと思うのですが、これもとりあえず今日は置いておきます。
 少しだけ言っておくと、文章の場合は以前に発表したものを時間が経ってから読み返してみて、なんだか居心地の悪さをおぼえることは多々あるのですが、写真ではあまりそういうことはありません。これはただ僕が文章を書くのに不慣れなだけだということかもしれませんが、文章の場合はもっとこうすればよかった、
こんなふうにしなきゃよかった、みたいなことが出てくることがありますよね。

イメージの話はもう少し深くお聞きしたいなと思いました。なので、(失礼な質問かもしれませんが)手掛りとしてあえて問わせてください。金川さんにとって「良い写真」とはどんな写真ですか。具体的に言い換えますと、展覧会に出す写真や写真集に掲載する写真を、撮りためたたくさんの写真の中から選ぶとき、何を基準にセレクトされますか?

全然失礼な質問ではないですよ!写真を選ぶ基準というのは作品によって変わってきます。「いい写真」の一般的な基準を言うのはかなり難しいですね。おそらく自分の好みのようなものはあって、好きだと思う写真、いいと思う写真に通底している基準みたいなものはあると思うのですが、それはあまりうまく言えそうにないですね。あと、そういうことをそんなに積極的に言いたいとは思わないというのもあると思います。
 誰かの作品を見て「いい写真だ」と思う場合で言うと、もちろんいろんな基準はあると思うのですが、これまでは自分ではよくわかっていなかった「よさ」を提示してくれる写真、こういう「いい写真」があるということを提示してくれるような写真は「いい写真」だなと思ったりします。
 ただ、今言ったようなこととはまた別に、「いい写真とはどんな写真か」という問いかけに対しては、「あらゆる写真がいい写真であり、おもしろいのだ」と言いたかったりもします。これは気分のようなものです。
 ここで話はとびますが、この「あらゆる写真がおもしろい」という気分は、「あらゆる日記はおもしろい」という考えにひっぱられて出てきたものです。そして、この「あらゆる日記はおもしろい」という考えは、「日記を読む会」を開催していくなかで生まれてきました。「日記を読む会」というのは参加者が自分が書いた日記を順番に声を出して読んでいくという会なのですが、そこで私は日記においては、表現の優劣やヒエラルキーは崩れ去り、あらゆる日記が独自のおもしろさを備えていると思いました(ただ、これは日記を読む会だからこそ、日記を書いた本人が目の前で声に出して読んでくれるからこそ成り立つことなのかもしれませんが)。
 「あらゆる日記がおもしろい」のと同様に「あらゆる写真がおもしろい」ということが成り立つような場をつくりだせたら、今回のワークショップがそういう場になれたらと夢想しています。

 とりあえず今回はこれぐらいで切り上げさせていただきますね。細谷さんの映画が苦手という話、とてもおもしろかったです。「映画館で映画を見ているとその間だけ「現世と切り離される」ような感覚があって、それが少し苦手」というお話を聞いて、ほんとにいろんな人がいるものだなと素朴に感動しました。おそらく多くの人はその「現世と切り離される感覚」を求めて映画を見ているようなところがあると思うので。僕もそういうところはあると思います。

 コロナの影響で、本当に先が見えない状況が続いていますね。それに加えて今年はずっと天気も悪く、なんだかもういろんなことが面倒になったりしています。ぶっちゃけ、この返信にもなかなか取りかかることができませんでした。ただ、いざ取りかかってみると、何か書くことによって自分自身が活気づけられたりもしました。自分が書くものに対してあまり神経質にならずに、書くことをつづけていけたらいいですよね。
 写真は先日取材で三重のほうに行ったときに撮ったものです。車のなかでもマスクをしていたり、これまでとはちがう神経をつかう部分はありましたが、ひさしぶりに遠出をして、天気もよくて、とても楽しかったです。たしかに写真を見ると、このときの感覚みたいなものがよみがえってきますね。

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2020年7月25日
金川晋吾

■ひとつ前の書簡はこちら

■この書簡に対するディレクター細谷の返信はこちら

金川晋吾(かながわしんご)・ 1981年、京都府生まれ。写真家。千の葉の芸術祭参加作家。神戸大学卒業後、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2010年、第12回三木淳賞受賞。2016年、写真集『father』刊行(青幻社)。写真家としての活動の傍ら、「日記を読む会」を主催している。
近著は小説家太田靖久との共作『犬たちの状態』(フィルムアート社)

▼千の葉の芸術祭WEB

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