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「スキが多い記事は本当に良い記事なのか?」について考えてみた


最近、noteでいろいろな記事を読みに行って感じていること。

正確には、"再認識していること"、というべきかもしれない。

それは、その時の自分が本能的に求めているコンテンツは、スキの多さとか、フォロワーの多さにはよらないということだ。


『スキの多さ』『フォロワーの多さ』といった数字は、ひとつの目安にはなるかもしれない。スキが多い記事から読みにいきがちなのはあるし、スキが多い記事がいい記事であることも実際多い。

. . . という一面はあるものの、数字が絶対の評価かというと、断じてそんなことはない。

noteでも、「なんでこんなにスキが少ないんだろう」と思うぐらい、貪るように一言一句逃さず読んでしまう記事に時々出会うからだ。いまの自分が探していたパズルのピースが見つかったような、そんな感覚になる。


スキが少ないのは、その記事がたいしたことのない内容だったという表れとも決めつけられない。ものすごく心に染み入る内容でも、スキをつけるべきではないと思ってあえて押さないこともある。


既読の意味でスキをつけている人がいるのも当然知っている。それでも、明らかに喜ぶべきではない内容とか、「今回の内容は気安くスキをつけるべきではない気がする」と思った時はあえてつけない選択をする。いらぬ誤解を招いてしまわないために。



その一方で、スキが3桁も4桁もついていて、さらにいろいろな人からTwitterでシェアされているのに、表情ひとつ変わらないまま読み終えてしまう記事もある。「ふーん」とスクロールが加速してそのまま流れていくことも。単に持て囃されているだけなのか、私の感性に合わなかっただけなのか、それはわからない。


いろいろな文章に触れてみるのも、視野を広げる手段のひとつ。その一環として読みにいくわけだけど。


紡がれている言葉がかすりもしない。読んでいる間、表情ひとつ変わらない。そもそもどんな話だったのかさえ入ってこない。


わかりづらい表現だと判断した途端、順を追って言葉を咀嚼できてもいないのにスクロールを始めてしまう自分がいる。私の頭にスッと入ってこない言葉の数だけだんだん早送りが進んでいく。最後には、「私はいま、なにを読んでいたのか」すらもわからないまま、ただページをめくるかのごとくタブを閉じる。こんなことが最近ちょくちょく起こる。


体調の問題か。感性が合わないのか。相手の言葉選びの問題か。それとも、私自身が拒否しているのか。


こういうことが起こると、時々、考えてしまう。


「スキが多いのは本当に良い記事だからなのか?」と。


人によって合う表現と合わない表現がある


「素敵な表現ですねー!」

「優しい言葉ですねー!」


こんな言葉をかけられている人の言葉を見ても、首を傾げてしまうことだってある。

その表現が不自然なまでに持て囃されている理由をわかろうとしても、「あまりにもまわりくどい表現で頭に入ってこない」と、頭が拒否反応を示す。「ただのおべんちゃらか?」と眉間にシワを寄せながら邪推すらしてしまう私自身が顔を出すのだ。


本当にその人にとっては響いた言葉なのかもしれないし、逆に、その界隈ではそれなりに名の知れた人(あるいは、つながりたいコミュニティの中心人物)だからと、本当にごますりをしていたかもしれない。それは私からはわからないこと。価値観と感性の違いだろうか。

あるいは、異質にも感じるほどの反応の違いを前に、私自身が納得する理由を無意識に探しているのだろうか。


スッと入ってくる言葉はスッと入ってくるし、どう頑張っても入ってこない言葉は入ってこない。芸術肌の人にとって、専門用語をお構いなしに並べ立てて理詰めにする、典型的な理系タイプの人の話が地獄に感じるように。


人によって合う言葉と合わない言葉がある。もっとコンテンツに寄せた言い方をするなら、『刺さる言葉』と『刺さらない言葉』という表現が良いだろうか。


考え方が人の数だけ違うのであれば、受け取り方も人の数だけ違う。たとえその記事が、その言葉が、表面的な評価を大きな数字として得ていたとしても、全員が賛同するわけではない。

いくらAmazonで評価が高いゲームでも、合わないと感じる人も当然存在して、『クソゲー』も同然の評価になることだってある。評価の高いスキンケア商品も、ある人にとってはアレルギー反応が出る最悪の商品になる可能性もある。それと同じだ。逆もまた然り。


だから合わないことは決して悪いことではない。

悪いことではないはずなんだけど、合わない人間がおかしいとばかりに攻撃する人間も一定数存在する。「お前の感性がおかしいんだ」「こんなにいいものの良さがわからないなんて、かわいそうな人」「私が正しい。お前が間違ってる。」と。


インターネット上では、切り取られた一部がとかく誇張されて見えがちだ。それがあたかも、万物が示すべき反応であるかのように。


その時の自分には縁のない言葉なだけかもしれないし、本当に受け付けない言葉なのかもしれない。でも、合わないものは合わないし、相容れない人とはどう頑張っても溝が埋まることはない。個性が人それぞれある以上、それでいいんだと思う。


結局のところ、自分の目で確かめるしかない


一方で、Twitterとかnoteで持て囃されていない、まだあまり知られていないであろうnoterさんの記事でも、食い入るように読んでしまうこともある。似たり寄ったりな石が積み重なった山から、暗闇にいた(埋もれていた)時間の長さだけ深みを増した宝石を見つけたような気持ちになる。「新しい人、みつけた」と格別に嬉しくなる瞬間だ。


「数字には真実を曇らせる落とし穴がある。数字の評価を信用してはいけないな。」と、掘り出し物を見つけるたびに思うのだ。


スキの数はあてにならない。いいねの数もあてにならない。フォロワーの数もあてにならない。


数字の大きさは試行錯誤を続けてきた積み重ねの証という一面も確かにある。もちろん、数字が目安になるのもある。しかし、数字を無条件に信じると大事なことを見失う。だから私は、数字を鵜呑みにする風潮に警鐘を鳴らしたい。


「なにこの人。フォロワー少ないじゃん。」と、"数字=戦闘力という軽率な発想で相手を低く見ていたら、実はとんでもない人だった"という話は、普段あまり聞くことがないだけで、実際起きている。それほど数字というものは判断を狂わせやすい上に、人間の昏い部分を増幅させやすい。


もちろん、"気に入る可能性"がスキの数字に応じて高くなることはある。とはいえ、私自身の例を先に書いたように、スキが多いからといってあなたにも刺さる内容とは限らない。


noteには「スキしてみて」といったハッシュタグがあるように、スキを促す仕様がいくつかある。例えばの話にはなるけど、そのハッシュタグがついている記事には、スキのリアクションを見るためだけにスキを押していく人たちも一定数いることだろう。それは果たして、コンテンツの良さに対するスキとなるのだろうか。


他にもある。メディア上で頭角を現した人にはある時から「〇〇さんが投稿しているから」と、無条件で高評価(スキ、いいねなど)を押す層がつき始める。スタートダッシュのためのブーストをかける、熱心なファンだ。


YouTubeで言えば、ある動画投稿者が動画を投稿したら、さほど時間が経ってもいないのに高評価がついているのを見たことがないだろうか。アレだ。動画分の時間すら経っていないのに高評価がついていることすら珍しくない。


その高評価はコンテンツそのものに対する高評価ではなく、「新作来たから高評価押しといた」「〇〇さんの動画だから高評価押した」程度のものだ。それと同じ現象が、場所を変えて起きているのがnoteでもうかがえる。


逆に、スキが少ないからといって、あなたにも刺さらない内容とは限らない。刺さる人の数こそ少なかったとしても、選ばれし者にとっては一撃必殺の如く、奥深く突き刺さる可能性を秘めているかもしれない。多数派から外れてはいるものの、カルト的ファンがついている『ニッチ』の可能性もあるわけだ。したがって、一概に「スキの数が少ない=たいしたことがない」とも言い切れない。


スキが多くつくほど万人受けする内容。

スキの数が絞られる、人を選ぶ内容。その代わり、スキの意味が本物で、なおかつ"選ばれた人"の記憶に深く残る内容。


良いものの形はそれぞれ。だけど、自分にとっての良いコンテンツは、数字(スキ、いいね、高評価)だけでは判断できない。数字は表に出てくるかもしれないけど、数字は真実を秘匿する。最後は、自分の目で確かめるしかない。


ただ、クリエイターの皆さんの名誉のために言っておくと、合わない人間が一定数出てくるコンテンツは、それはつまり『良いコンテンツのひとつの形』とも言える。良いと悪い。合うと合わない。そのどちらもワンセットな「表裏一体」だからだ。


そう考えると、ほとんどのコンテンツは、ある意味で良いコンテンツとなり得るのではないだろうか。


といっても、『良いコンテンツ=あなたが求めているコンテンツ』になるかどうかはまた別の話になってくる。だから、あなた自身に刺さらなかったとしても、それは何の問題もない。『ない』ということは、別のどこかに刺さる対象が『ある』からだ。


どれだけ評価の数字が大きかろうと、そのコンテンツがあなたにとって響かないのであれば、あなたの世界には必要がなかったということだろうし、数字が少なくてもあなたの世界に猛烈に響いたのであれば、それは宝石になる。


結局のところ、あなたの世界での真の評価は、あなたの審美眼に委ねられている。つまり、あなたが本当に良いと思うかどうかだ。


あなたの世界にとって良いものは良い。合わないものは合わない。最後は、このシンプルな判断に尽きるのかもしれない。


https://twitter.com/majimaji5655


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